『文明の創造』宗教篇「仏教の起源」(昭和二十七年)  

  観世音菩薩の御本尊は、伊都能売(いずのめ)神である事は、以前から私は度々(たびたび)知らしてある処であるが、これに就(つい)て分らなければならない事は、元来仏身なるものの根本である。単に仏といっても実は二通りあって、本来の仏身と神の化身との両方ある。そうして本来仏とは約二千六百年以前、釈尊の時から生れたものであって、其頃迄は今日の印度は、当時月氏国とも言われたので、同国に於ては余程以前から彼の婆羅門(ばらもん)教が隆盛を極めていたのであって、此婆羅門教なるものは、教義のようなものは更になく、只肉体的難行苦行によって、宇宙の真理を掴もうとしたのである。今日でも絵画彫刻等に残っている羅漢などは、其苦行の姿であって、此姿を見ても分る如く、樹上に登って鳥の巣の如きものを拵(こしら)え、それに何年も静坐をした。当時の高僧鳥栖禅師などもそうであリ、又掌の上に塔の模型の如きものを載せたまま、何年もジットしていたりする等何(いず)れも一種異様な形をし乍ら、合掌坐禅をしており、一々見る者をして、奇異の感に打たれるのである。酷(ひど)いのになると、板の上に沢山の釘を打ちつけ、其上で坐禅を組むので、釘の尖(さき)で臀部(でんぶ)に穴が穿(あ)き、出血と共に其苦痛は名状すべからざるものがあろう。然(しか)し此我慢が修行なのであるから、到底今日では想像も出来ないのである。

 彼の達磨(だるま)大師にしても、面壁(めんぺき)九年という長い歳月坐禅のまま壁に対(むか)って、瞑想(めいそう)を続けていたのであるから、其苦行は並大抵ではあるまい。茲で一寸(ちょっと)達磨についての説であるが、右の印度の達磨大師とは別に、今から千二、三百年前、支那にも同名異人の達磨が現われたので、之がよく混同され易いようである。支那の達磨は聖徳太子の時代日本へも渡来し、太子に面謁(めんえつ)されたという相当確かな記録を、私は見た事がある。

 話は戻るが、婆羅門の行者達は、何故それ程の難行苦行をするかというに、之に就てはその頃多くの求道者達は、競って宇宙の真理を知ろうとして、其方法を難行苦行に求めたのである。恰度(ちょうど)今日学問の修業によって、博士号や、名誉、地位を得ようとするようなものであろう。そうして達磨に就ての今一つの面白い話は、彼は面壁九年目の或夜、フト満月を仰ぎ見た時、月光が胸の奥深く照らすと思う一刹那、豁然(かつぜん)として大悟(たいご)徹底したので、其喜びは絶頂に達したという事で、それからの達磨は、見真実の如くに如何なる難問にも明答を与え、当時抜群の行者として、多くの者の尊信を集めたという伝説がある。

 そうして当時の印度に於ては、日本でいう天照大御神と同様、人民の最も畏敬の中心となっていたのは、彼の大自在天神であった。其外大広目天、帝釈天等々色々な御名があるが、之は日蓮宗の曼陀羅(まんだら)に大体出ているから見れば分るが、兎(と)に角バラモン教が圧倒的に社会を風靡(ふうび)していた事は間違いない。処が其頃突如として現れたのが、言う迄もなく釈迦牟尼(むに)如来であった。この経緯は後にかくが兎も角皇太子であられた悉達(しった)太子が、修業終って大覚者となり出山したのである。太子は幽現界の真相を会得し、燃ゆるが如き大慈悲心を似(も)って、一切衆生を済度(さいど)せんとする本願を立てた。そうして其手段として先ず天下に開示されたのが、経文(きょうもん)を読む事によって覚りを得るという方法で、之を大衆に向って大いに説諭(せつゆ)されたのだから、当時の社会に一大センセーションを捲き起したのは勿論である。何しろ当時婆羅門式難行苦行を、唯一無二のものとしていた事とて、喜んだのも無理はない。何しろ之に代るべきものとしての読経(どきょう)という安易な修業であるから、茲に大衆は釈尊の徳を慕い、日に月に仏門に帰依(きえ)する者続出するので、遂に釈尊をして印度の救世主の如く信奉の的となったのは無理もない。其様な訳で、遂に全印度を仏法化して了ったので、此が仏教の起源である。それからの印度は、さしものバラモンの勢力も、漸次萎靡(ぜんじいび)不振となったのは勿論であるが、といって全然消滅した訳でなく、今日も一部には尚残っており、同宗行者は、仲々の奇蹟を現わしているという事で、英国の学者中にも、研究の為印度に渡り熱心に研究する者もあるとみえ、私は先年其記録を読んだ事があるが、素晴しい奇蹟の数々が、掲載されていた事を今でも憶(おぼ)えている。

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