『文明の創造』宗教篇「伊都能売神(いづのめしん)」(昭和二十七年) 

 前項に述べた処は、大自在天なる言わば婆羅門(ばらもん)宗旺(さか)んであった頃の、主宰者を表わした のであるが、其(その)当時曩(さき)に述べた如く、日本古来の神々は印度へ渡航し、化身仏となられたので、其化身仏の総領が伊都能売神であって、当時日本に於ける最高の地位であられたのである。処が其頃素盞鳴(すさのお)尊を中心とする朝鮮の神々が渡来され、伊都能売神の地位を狙って犯そうとしたが、容易に応諾されない為威圧や迫害等から進んで、遂に生命に迄も及んで来たので、急遽御位(きゅうきょみくらい)を棄てられ、変身によって眼を外(そ)らし、窃(ひそ)かに日本を脱出し、支那を通って印度へ落ち延び給うたのである。そうして観自在菩薩の御名によって、当時印度の南方海岸にある補陀洛(ふだらく)という名の、余り高からざる山の上に安住せられるべく、新たなる清き館を建てられた。此(この)事は華厳(けごん)経の中にある。曰(いわ)く『観自在菩薩は補陀洛山上柔かき草地の上に金剛精座を出来、二十八部衆を随(したが)え結跏趺坐(けっかふざ)して説教をされた云々』とある。当時まだ善財童子という御名であった若き釈尊は、此説教を聴聞して、其卓抜せる教えに感激すると共に心機一転してそれ迄の悉逹(しった)太子という皇太子の御位(みくらい)を放棄し、一大決意の下に、当時紊(みだ)れていた俗界を離脱し、直(ただ)ちに檀特(だんとく)の山深く別け入り、菩提樹(ぼだいじゅ)〔一名橄欖樹(かんらんじゅ)〕の下石上に安坐し一意専心悟道(いちいせんしんごどう)に入るべく、修行三昧(ざんまい)に耽(ふけ)ったのである。この修業の期間に就(つ)いて、諸説紛々としているが、私は七ヶ年と示された。

 そうして業成り出山するや、愈々(いよいよ)釈迦牟尼(むに)如来として仏法開示に、取かかられたのであるから、実際上仏法の本当の祖は、日本の伊都能売神であった事は確かである。そうして今一つ日本から仏法が出たという証拠として見逃し得ない一事がある。それは仏教でよく称える本地垂跡(ほんちすいじゃく)の言葉である。之は私の考察によれば、本地とは本元の国即ち日本であり、垂跡とは勿論巡跡(じゅんじゃく)教を垂れる事である。即ち最後に至って、故郷である日本全土に、一度仏の教を垂れると共に、仏華を咲かせ、実を生らせなければならないという密意である。又今一つは観世音の御姿である。其最も特異の点は、漆黒の素直な頭髪で、之は日本人特有のものである。それに引換え釈迦、阿彌陀は全然異った赭(あかつち)色、縮毛であるにみても、両如来が印度人であった事は明かである。又観世音の王冠や、首飾り等も、高貴な地位を物語っており、頭巾(ずきん)を被(かぶ)られているのは御忍びの姿である。

 そうして又釈尊の弟子に、法蔵菩薩という傑出した一人がいた。彼は一時釈尊から離れて他の方面で修行し、業成ってから一日釈尊を訪れていうには『私は今度印度の西方に一の聖地を選びて祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)を作り、これを極楽浄土と名付けた。其目的は今後世尊の御教によって、覚者即ち仏の資格を得た者を寄こして貰いたい。さすれば右の極楽浄土、別名寂光の浄土へ安住させ、一生歓喜法悦の境遇にあらしめるであろう』といって約束をされたのである。寂光とは寂しい光であるから勿論月の光である。処がこの法蔵菩薩が他界するや、阿彌陀如来の法名となって、霊界に於て一切衆生を救われたのである。つまり現界は釈迦、霊界は阿彌陀が救うという意味である。

  そうして観自在菩薩は、終りには観世音菩薩と御名を変えられたのである。これは梵語(ぼんご)ではアバロキティシュバラの御名であったが、後支那に於ける鳩摩羅什(くまらじゅう)なる学者が訳され、観世音と名付けられたという事になっている。処が此観世音の御名に就ては、一つの深い神秘があるから、それをかいてみよう。

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