大光明世界の建設 暗中模索(病貧争絶無の世界を造る観音運動とは何? 昭和十年九月十五日)

 今日迄の凡ゆる聖典、即ち経文、聖書、御筆先等の著述を読む人は、誰しも気付くであろうが其孰(そのいず)れもが、如何にも瞹眛模糊としており、謎の如く、不可解極まるものが多い事実である。然るに、それを誰も、今日迄怪しむ者がなかったのみならず、甚だしきは、解らないから有難いのだ、なぞと言うに至っては、洵(まこと)に滑稽千万である。それは人類が、一種の宿命的心理作用に捉われ切って了って、賢哲や、聖者の遺文聖典は、無批判的に盲目的、絶対真理と決めて了ってかかるという、妙な癖からである。経文にも、バイブルにも、真理に外れた個所は、随所にあるのであるが、それを見破る人がなかった。それは、実に不思議な事であった。彼等聖者達が言った中にも、誤れる言葉がある。それを、後世の人間が無理に真理付けて、有難がって居たという事は、実に、馬鹿馬鹿しい事であった。こんな事を言えば狂人の如(よ)うな大胆さを嗤(わら)うであろう。然し、私は断言する。若し、聖者達が言った事が、全部真理であったならば、人類はもっと救われて居るべきで、地上天国は、已に出現していたかも知れなかったのである。

 釈尊は、仏教の真髄は真如だと言った。真如とは、真の如し、即ち、真理の如きものであって真理そのものではないという事である、謂わば、真理が現われる迄の、仮定的、第二義的のものであったという意味である。

 又、凡ゆる聖典の文意たるや、実に恐ろしく明瞭を欠いている。孰れにも意味がとれ易く、謎的寓意的で、不必要な、諒解し難い文句や、あらずもがなの蛇足に満ちている。成程、驚嘆すべき名文も、太陽の如き真理も、珠玉の名句も、多々あるにはあるが、それにも増して、不必要な文字の羅列が、余りにも多過ぎる事である。

 各々の宗教が、年を経るに従って、幾宗にも、何十派にも分裂するという事は、何が為であるか、それは、経典の不徹底に基くが為である。明々白々、一点の疑いを挿(さしはさ)むべき余地がないように、説かれてあれば、何ぞ、迷いの生ぜんやである。見る人各々によって、幾種にも解釈が出来るような説き方であるから、幾何派にも分裂するのであって、当然過ぎる話である。

 仏典の要諦も、バイブルの真実も、二千有余年間、幾万の人が努力したとても、未だに真底の秘義を把握出来ないでいる。科学でさえ方程式が有るではないか、故に学者も、政治家も、教育家も、商人も農民も、凡ゆる大衆がみて以て、簡明直裁に、天地の真理を把握して、些かの迷いも生じ得ないという経典こそ、真の救世的、大威力を有(も)ったものである。

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