私は真理を書く (地上天国二十八号 昭和二十六年九月二十五日)

   私は十数年前から原稿を書き始めたのであるが、勿論信仰を中心にしたものばかりで、今迄の宗教の開祖などと異って、固苦しい事や、野暮くたい事など一切抜きにして、如何なる階級の人にも、解り易いようにと、意を用いて来たのである。併し茲に具合の悪い事もある。というのは例えば釈尊の八万四千の経文にしろ、キリストのバイブル、真言の密教、親鸞の歎異抄、日蓮の御文章、天理教祖の御神楽歌、大本教祖の御筆先等々にしても、どれもこれも一種の悪く言えば宗教臭味があり、よく言えば何かしら神秘的で、判るような判らないような処に、反って魅力があるのではないかとも思えるのである。と言って解釈が難しいから、其人次第で色々にとれるから、どうしても分派が出来易い。何よりも其宗教が大であればある程分裂し、相剋し合う例は歴史がよく示している。そんな訳で信徒は其信仰の真髄を掴み得ない為、迷いが生じ易く、真の安心立命は得難いのである。

      右の如くであるから、今迄の教の行り方では、一つの宗教でさえ和合統一など到底出来ようもない。況んや全宗教の帰一など夢にも思えないのであって、年々新宗教の増えるのも、そんな処にあるのであろう。仮に日本だけにみても、人工増加に比例して、宗教の数も増えつつあるのが現状である。

    処が如何なる宗教でも、其拝む的といえば、エホバ、ジュース、ロゴス、天帝、無極、天照大神、国常立尊、キリスト、釈迦、阿彌陀、観音等が主な神仏で、其他何々の尊、同如来、同大師等々色々の御名はあるが、勿論立派な神仏には違いはない。中には稲荷や天狗、龍神など、低俗な信仰は別として、其根本に遡(サカノボ)れば、独一真神即ち主神一柱で在す事は論のない処であるが、今日迄どの宗教でも、自分の方が一番最高で立派な宗教なりとし、排他的観念も多分にあるから、統一などは出来よう訳がないのである。そうかといって最後の理想だけはどの宗教も同一である。即ち此世の天国、極楽世界、理想世界の実現であり、人類全体の幸福であって、之に反対である宗教は一つもあるまいが、それなら其様な世界の実現はどうすればいいかと曰うと、即ち世界を打って一丸とする帰一的宗教が生れなければならないのである。それこそ万人挙(コゾ)って信じ得られる程の、超宗教的偉大なものでなくてはならない。それが我メシヤ教であるとは云わないが、そういう世界を作り得る手段、方法、即ち計画設計はどうすればいいか、それを教えるのが本教の使命であって、其認識者が各民族の智識人間(カン)に増えるに従って、目標に向って一歩々々前進するのである。之を一言にして謂えば、真理の具現であり、之によって一切の誤謬は明かになり、是正され、明朗清純な光明世界が実現するのである。勿論人間から悪は追放され、虐げられていた善が興隆し、人類は幸福を楽しむようになるのである。従って先ず真理を普く全人類に知らせる事こそ根本である。というと人は言うであろう。昔から多くの偉人が、剰(アマ)す処なく真理を説いて来たではないか。故に今更其必要はないと言うかも知れないが、実は之が問題である。というのは若し今迄に真理を開示されていたとしたら、それが具体的に表われ、既に天国世界は実現されているか、そうでない迄もそれに近ずきつつあらねばならない筈であるが、そういう気振(ケブ)りすら見えないのである。成程物質的には確かに天国に近づきつつあるといってもいいが、他の一面即ち精神界に至っては、何等の進展もなく、寧ろ反対でさえある。之では真に天国世界は何時になったら実現するか、見当もつかないのである。としたら其原因こそ、今迄信じて来た真理そのものは、実は真理ではなかった事に気付くであろう。

      何よりも世界の現実を見るがいい、総ては天国とは余りに隔りがあるではないか、人間の最大苦悩である病気は、依然として減らないし、貧乏という生活苦も相変らずであり、個人同志の争いも、国家的争い即ち戦争も見らるる通りの有様である。としたら、全く真理が行われていない證拠である。従って今迄真理と思っていたものは、実は偽真理であるから、天国建設の妨害にこそなれ、有用なものではなかったのである。処が愈々時期到来、神は真理を解明すべく、私をして普く人類に知らしめ給うのである。それが我メシヤ教出現の理由であるから、私のかく文章は、万人に解り得るよう神が神示され給うのである。

   右の如くであるとしたら、私の今迄かいたものは悉く真理であって、真理の鏡に照して偽真理の欠陥を晒け出し、改善する方法を諭(オシ)ゆるので、之によって真理と偽真理との区別がハッキリするばかりか、其上事実を以て示すのである。それが彼の浄霊医術であり、自然栽培であり、芸術の向上であり、地上天国模型の建設である。

      以上によって、私の現在実行しつつある事業は、一言にしていえば、真理具現の一大課程であり、筆によって真理を分らしむべき大努力である。

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