善を楽しむ (信仰雑話 昭和二十四年一月二十五日)

私は熟(ツク)づく世の中を観ると、多くの人間の楽しみとしてゐる処のものは、善か悪かに分けてみると、情ない哉、どうも悪の楽しみの方がずっと多いようである。否楽しみは悪でなくてはならないように思ってゐる人も少なくないらしい。

先づ一家の主人公であるが、生活に余裕が出来ると花柳の巷へ行きたがり、二号などを囲いたがる。而もそれが為の金銭は正当でない手段によって得る方が多いようであるが、勿論それは悪に属する行為である。それが為危い橋を渡り、国家社会に損失を与へたり、自分自身としても家庭の円満を欠き、不安の生活を送る事になろう。而も成功と享楽が人生最後の目的であるかの如く思惟(シイ)し、不知不識(シラズシラズ)の裡(ウチ)に現世的地獄に転落するのであって、そういう人士は中流以上に多い事であると共に、それ等成功者を見る大衆は外面の様相のみに眩惑され、人生是なる哉と羨望しその真似をしたがるから、何時になっても良い社会とはならないのである。又正直者は馬鹿を見るという 言葉もあり、真面目に世渡りをしてゐる者は下積みになり、危い綱渡りをする者が出世をして豪奢な生活をするという現状である。其他官吏の役得、会社員の不正利得、 政治家の闇収入等々、全く俯仰(フギョウ)天地に愧(ハ)じない人は今日何人ありやと言いたい程である。

是に於て私は善を楽しむ事を教えたいのである。即ち相当社会に頭角を顕わすようになっても柳暗花明の巷に出入りする事は出来るだけ避け、余財あれば社会公共の為に費し、困窮者を助け善徳を施し、神仏に帰依し、時々は家族を引連れ映画、演劇、 旅行等を娯しむのである。斯ういう様な行り方であれば一家は団欒し、妻は夫を尊敬し感謝するようになり、子女の如きも先づ不良になる心配はないであろう。従而経済不安もなく、不摂生もなく、健康も恵まれ長寿も保ち得らるる訳で、日々を楽しみ心は常に洋々たるものがある。明治の富豪として有名な大倉喜八郎氏は面白い事を言った、「人間長生きをしたければ借金をしない事である」と、それは借金程精神的苦痛はないからである。私も二十年間借金で苦しんだ経験があるのでよく判る気がする。 然るに現代人の中には暴露すれば法に触れたり瀆職罪になったりするような事を為し、暗闇(クラガリ)の取引を好み、妻君に知れたら大騒動が起るような秘密を作り、高利の借金をし常に戦々兢々として不安の日を送ってをり、其の苦痛を酒によって紛らそ うとする。酒が何程高くなっても売れるのはそういう訳もあろう。従而健康を害し短命となるのは言うまでもないと共に、斯ういう泥沼生活に入ったものはなかなか抜け出る事が出来ないのが通例である。先づ抜け出る唯一の方法としては宗教に入る事で、それ以外に方法はないであろう。

私は以上の如き善悪二筋道を書いてみた。悪を楽しむ人と善を楽しむ人とである。 読者諸士よ、卿等(ケイラ)は何れを選ぶや、熟慮を望むのである。

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