岡田茂吉 『地上天国出来るまで』 昭和二十五年九月二十一日 | 岡田茂吉を学ぶ

『地上天国出来るまで』 昭和二十五年九月二十一日

本教唯一の事業である地上天国建設に就て、最初からの事をかいてみるが、其模型だけ造るにしても、容易なものではない。此様なものを造るといふ事は、外国は知らないが日本では殆んど例がないといってもよからう。私自身としても、希望だけは持ってゐたが、実行の段になると、いつも躊躇逡巡(ちゅうちょしゅんじゅん)した事である。処が、神様の方ではどうしても私に造らせようとなさるのである。之は種々の奇蹟を見せらるると共に、凡ての事情がそうしなければならないような、段取りになってくるので、段々私の考えも変って来てどうやら自信がつき機会を待ってゐた、それが昭和十八年頃であった。すると彼の太平洋戦争が段々激しくなって来たので、東京も空襲の危険があるばかりか、そうなっては出来なくなる、といふ訳で移転するの止むなきに到った。そこで気が付いたのは愈々前述の時期が来たのだ、といふ訳で先づ箱根に狙ひをつけた。 それは私は余程以前から、箱根と熱海が非常に好きだからである。

然し箱根なら、強羅に限ると思ったので、強羅を探させた処、恰(あたか)もよし、故藤山雷太氏の別荘が売物といふので、早速行ってみたが、非常に気に入ったので、見た翌日購入の約束をしたのである。此家屋は大分古いが、寔(まこと)に申分がなく、土地は六百余坪、家屋は百坪位、入口は巽(たつみ)にあたり自然石の階段を十数間上りつめ、玄関に上るや、三段の階段あり、それを上り広い廊下を屈折すると、突当りに又八段の階段があり、それを登ると座敷は、御神前に相応しい広間である。四方の眺望は実に風光明媚なる事、箱根随一であらう。又此家は、家相からいっても非常によい。巽の入口は最もよく、門から爪先上りになっており、玄関から広間に至るまで、前述の如く階段が二箇所もあり、又左の方が日本間、分れて右の方が洋間になってゐる。之は鶴翼の形と言って最もいいのである。而も、洋間のつくりは船の形になってをり、之も波を切って進むといふ意味で、何から何まで理想的である。特筆すべきは、家全体が岩の上に建ってゐて、祝詞にある下津磐根に宮柱太しき建てといふのは之であらう。全く神の家として相応しく、前から神様が用意されたものである事は、よく判るのである。

そうして、此館を神山荘と名付けた。といふのは背後に箱根最高の山である神山があるからで、其前一段低い山が早雲山である。神山荘へ移るや、隣地約二千坪の土地を登山電鉄会社から買ひとった。此地は二十数年前電鉄が作った日本公園といふ小公園であったそうで、貸別荘が数軒点々としてあるが、別荘とは名ばかりで、腐朽住むに堪えない程である。此辺一帯長い間手を入れなかったので、八重葎(やえむぐら)生ひ繁り、昼尚暗く道さへ定かには判らない程である。無論平地などある筈もないが、此小公園の中央部に私は離家を一軒建てたいと思ひ、凹凸の地形を整地して、漸く三十余坪の平地が作られた。当時十五坪以上は建てられなかったので、十五坪の家を建てようとしたが、何しろ戦争酣(たけなわ)なる頃とて、材木を手に入れる事も出来ない。処が、都合のいい事には数年前東京の宝山荘の庭園内に離れを建てるべく、木材の上等品を集め、建前するばかりになってゐたのが、訴訟事件の為、裁判所から建築停止命令を受けたので、そのままになってゐたのをフト気がつき、恰度いいと想ったが、当時は民間のトラックは駄目だったので困ってゐた処、海軍に関係のある信者が之を聞き、搬出してくれたのである。愈々建築に取掛り三分の一位出来た時、空襲が愈々激しくなり、職人に食はせる飯米さえ手に入れる事が出来なくなったので、工事を一時中止の止むなきに至った。すると不思議なるかな、突如として一信者が、白米六俵をトラックに積んで来て寄贈されたのである。私はハハア神様は工事を中止してはいけないといふ思召しだなと思って、工事は休む事なくそのまま続行し、二十一年八月出来上ったのが今の観山亭である。

処が、二十年八月十五日、戦争の幕が閉じるや、私は大きな家を建てたいと思ひ、翌九月部下に命じて、秋田県に遣はし、杉材千石を買付けさせた。其頃はまだ安い時分で、石三百円であった、それは神社の立木、五十余本である。すると神仙郷の一段低い処、六百余坪を売るといふのですぐさま購入したが、此処は前から非常に欲しかったので、大いに喜んだのである。手に入れるや此所へ神殿を建てるべく、斜面を整地し平坦な土地数百坪が出来たので、建築に取掛らうとした時、突如某氏の紹介で、現代日本に於る建築設計界の、第一人者ともいふべき美術学校教授、吉田五十八氏が来たのである。(氏は現在歌舞伎座の設計担当者)話合ってみると頭脳明析、私の意見とよく合ふので、全く神様が寄越してくれたと思った。此様に資材と言ひ、土地と言ひ、設計家といひ、必要なものは必要な時に、チャンと神様は遺憾なく整えてくれるといふ訳で、何から何まで奇蹟の連続である。此建物が今度名を改めた日光殿である。

その頃、此強羅の神苑を神仙郷と名づけたのである。建物としては最初買入れた神山荘を初め、次に出来たのが観山亭で、此家は私の住居に宛ててゐたが、余り狭いので今年建増しをした、此家は神仙郷の恰度中央に位してゐて、三方山に囲まれ眺めは非常によいので、右の名を付けたのである。その下方低い平地に建てた茶席は、山月庵といひ、之も今年出来上ったもので、之は有名な木村清兵衛という茶大工が、心血を注ぎ三年掛かりで完成したものである。其の横に萩の道を作り、其処に記念として建てた小家屋を萩の家と名づけた。此萩の家に就ての一挿話をかいてみるが、今から二十数年前、此処が日本公園であった頃、数軒の貸別荘があったが、私は其以前から強羅が非常に好きなので、是非一遍住んでみたいと思ひ、貸別荘の中一軒を借りて、一夏住んだ事があるので、其時の追憶忘れ難く、其貸別荘を修繕したのが右の萩の家である。萩の家の前の道を稍々(やや)上ると、岩石を遇(あしら)って竹林を造ったが、之は支那風で、仙境に遊ぶ思ひがするといって、観る人からよく賞められるのである。そこから石の階段を数段上ると、稍々広い敷地がある。そこへ美術館を建てるべく、目下整地の土工中である。

 いつか一遍かいた事であるが、此神苑は昔から誰も試みた事のない、新機軸的のもので、神命のまま造るのであるから、神の芸術といってもよからう。狙ひ所は、自然の山水美と人工的庭園美とをよく調和させた、一個の芸術品を生み出さうとするのである。それに対し、錦上花を添える意味で、右の如く美術館を計画したのである。之は自然の山水美と人工的庭園美だけでは物足りないといふ訳で、どうしても日本独特の美術品を展示しなければ、真のパラダイスとは思へないからである。今一つの目的は、来るべき将来、観光外客が箱根へ遊覧に来た時、此神仙郷を観覧させるとしたら、日本美術紹介に如何に大なる貢献をするかを考へ、それを具体化したものである。茶室も勿論その意味である。之によって日本人が、如何に芸術に対する深い理解と、高い審美眼と、優れた技能を有してゐるかといふ事を、世界的に知らせたいからであり、此事が国策上の一役を荷(にな)う所以とも思ふからである。

茲で、神仙郷に就ての沿革や諸々の事をかいてみよう。先づ、神苑の小高い処に立って眺むる時、まながいには明神、明星の両嶽が青々としてなだらかな曲線を描き、金時から乙女峠へ連なってをり、箱根特有の山容のおだやかさは、心を和めずにはおくまい。明神が左の片袖とすれば、右の片袖は浅間山である。両袖の間稍々展(ひら)けたる処、遙か霞の奥に湖と見紛ふばかり、淡々たる海原が見える。之はいふ迄もなく、相模湾の小田原寄りで、晴れたる時は、三浦半島が一条の一線を描いてゐる。其少し上方一線を劃してゐる地平線に、長々浮んでゐる模糊たる山並は安房半島で、鋸山の特異なギザギザもよく見える。振り向いてみれば、浅間山は椀を伏せたやうな山で、遠く早雲山まで続いてゐる。それを圧するやうな大きな山は、ハイキングで名高い駒ケ嶽である。遠望はその位にしておいて、イザ之より庭園を彷(サマヨ)ふ事にしよう。ここは早雲山の麓になってゐるから、後を見上げれば早雲山は庭内の山としか思えない程指呼の間にある。庭園内到る処、巨巌怪石、面白く其色、形、一つとして同種のものはなく、こゝにも神の技巧を見出すのである。而も観山亭の西南の方角を囲んで、丈余の巨巌が立ち並んでゐて、箱根特有の神山颪(おろし)を防いでゐるのも奇妙である。特に玄関を隠すが如く屹立(キツリツ)せる巨巌は、魔を除けるといふ地曳岩とも思える。

そうして特記すべき事は、箱根全山の内、最も巌石の多いのは強羅であり、強羅の中央部に位する、吾が神仙郷は巌石の集中地点ともいへる。此辺り地を掘れば、巨岩累々として底知れずである。処が、一丁位隔てた先は土ばかりで、殆んど岩石を見ないのであるから不思議といふより外はない。而も岩石の種類は数限りなくあるから、庭園を作るとしたらお好み次第である。先づその中の主なる種類といえば、一は灰色で鋭角のある頗る硬質であり、二は青黒味かかった灰色の硬度が稍々低い、皺や刻みが多いのは流下の際無数の衝撃に遭った為であらう。三は赤色黒木風の溶岩的のもので、四は褐鉄色の多角的な硬質のものである。何れも早雲山爆発の際流下したもので、此あたりに集積されたのは勿論である。此時の噴火は、ガス噴出により、地殻の岩盤が爆破されたもので、所謂(いわゆる)、爆裂火山である。

面白い事には、此時の噴火によって、相当量の火山灰が降下し、堆積した痕跡がある。といふのは、数丁下の宮城野村に、今でも土を掘ると、高さ二、三十尺位と思える。杉の巨木が埋ってをり、長い歳月を経て今は神代杉になってゐる。以前は土地の百姓などが、それを掘出して、相当の利益を得たといふ事である。これでみると、火山灰の積層は、数十尺に及んだ事は明かである。最も大きな杉は、直径六尺に及んでをり私も見た事がある。その時の噴火口の跡は、早雲山を見上げると、中央部が陥没しており、赤膚になってゐるからよく判るのである。大湧谷の温泉も、その時出来たものであらう。ここから湧く湯が強羅の温泉である。私は以前、早雲山から神山、駒ケ嶽辺を跋渉(ばっしょう)した事があるが、全山潅木地帯で、巨木は全然見当らないにみて、噴火はそれ程、古い時代でなかった事が肯れる。といふのは、此火山灰には硫黄分が含まれてゐるからである。大体、箱根全山は余り巨木をみないのは、相当遠方まで火山灰が降った為であらう。

そうして話は戻るが、神苑の一石、一木、一草たりとも、皆私の指示によらぬものはない。面白い事にはこういう石が欲しいと思ふと、必ずその附近にあるか、その辺を堀れば出てくる。之によってみても、神は何万年以前、岩盤が造られ、或程度に硬化するや、噴火を起し、適当の大きさに破砕し、神仙郷を中心として流下させたもので、今日私に指示を与へつつ、庭園を神の思ふがままに造らせてをられる事は、実によく判るのである。此事だけに見ても、私が常にいふ処の、神は私を機関として、地上天国を造らしむるといふ事の神意は余りにも明かである。又木や草、花卉にしても必要なものだけは誰かが必ず持ってくるか、附近の植木屋か、別荘の庭などにあって、それを売りたいと言ってくる。実に奇々妙々である。よく世間で少し大きい事や難しい事などやらうとする場合、苦心惨澹するといふが、私にはそういふ事は殆んどない。前述の通り、欲しいものや、要るものは、自然に集ってくるからである。金銭なども右と同様、必要なだけは必ず入ってくるから心配など些かもない。勿論、足りない事もないが多すぎる事もない。恰度よい位である。曩に述べた通り、私が一歩から始めたのは、昭和十九年の五月からであるから、まだ僅々六年にしかならない。その間戦争の邪魔などがあったに拘はらず、世間から問題にされたり、馬鹿に大きく扱はれたりするのは無理もないが、何しろ熱海箱根の地上天国造営の現地を見れば、短期間の仕事とは、到底思えない程であるからである。といふ事は、前述の如く、一切、神が指示されるまま、其通り実行してゐる以上、蹉跌(さてつ)や破綻などある筈がない。凡て順調に進むからである。

茲で一つの奇蹟をかかない訳にはゆかない。それは今日迄六年の間巨巌大石を移動し配置する場合、一人の死人も怪我人もなかった事である。大きいのになると、直径十尺に及び、目方も二万貫以上のものもあるのであり、それに携はる専門家の言によるも、経験上、此位の工事になると、何人かの死人が出たり、多くの怪我人が出たりするのが当り前で、此工事の如きは只々驚くの外はないといつも言ふのである。彼等も遂に人間業ではない事に気がつき、神の実在を信じ、私のやってゐる経綸も認識されたと見え、今日は一人残らず入信したのである。

以上は最初から今日迄の経緯を大体かいたつもりであるが、現在美術館を除き其の他は、殆んど完成の域に達したので、今回その落成式を秋季大祭に兼ね行おうとするのである。此祭典は九月二十一日から二十七日迄、一週間、各会順繰に、執り行はれるのであるが、実は三日間位に切り詰めたいとは思ったが、何しろ日光殿では狭過ぎるので、庭園の方へ仮に張出しを作る事にしたが、それでもまだ足りそうもないので、一週間に引延すの止むなき事になったのである。そうして祭典の外に、余興として七日間を通じて、毎日人も番組も違え、一流の芸能人を招いたので、大いに天国気分を満喫させやうとの企画である。それは、私がいつもいふ地上天国とは芸術の世界であるから、今迄述べたやうな天然美、人工美の外に、歌舞音曲の如き耳目を楽しませるべき芸能もなくては、完璧とはいえないからである。以上小規模乍ら、地上天国の模型建設に就ての経緯をかいたのであるが、要するに今度の祭典はその一歩を踏み出す記念すべき、頗(すこぶ)る重大なる慶事である事を告示するのである。

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