善人よ強くなれ (自観叢書第十二篇 自観説話集 昭和25年1月30日)

熟々(つくづく)今日の世相を観るに、悪い奴があまりにノサばり過ぎている。それが為、善人が如何に虐げられ苦しみつつあるかで、之は誰も知る処であろう。それについてその根本の原因をかいてみよう。

 昔から兎角(とかく)善人は弱いもの、悪人は強いものとされている。之が為悪人共は益々跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)する。といって昔は今日の如く法規の完備、暴力取締の機関がないから、悪人の暴力に対し善人は手が出せないので、泣寝入になって了うという訳で、町人階級は腕っ節の強い奴、無鉄砲な奴が巾を利かしていた。又武士階級と雖(いえど)も其中の悪人は、剣の力を悪用するので、町人階級は恐れて手が出せなかった事など、歴史や物語りに数知れず遺っている、という訳で今日とは雲泥の相違があった。尤も維新後世は文明開化の時代となり、漸次法規も完備し、暴力否定の傾向に社会全般が向きつつ今日に到ったのであるが、悲しい哉、我国の社会は今以て暴力根絶とはならない。特に終戦前までは軍閥や右翼の浪人壮士輩が、多少の暴力を伝家の宝刀として機に触れ、用いた事もあるにはあった。

 処が、終戦後は軍閥もなく、右翼も殆んど鎮圧されたので、この点よほど明るくはなったが、其かわり近頃の悪人共は暴力以外の手段を巧妙に行使し始めた。勿論金銭を目的に善人を苦しめるのである。それはどういう手段かというに、いわば合法的脅喝である。つまり紙一重で法に引かからないようにする。其等は常に本紙に掲載しているユスリ、タカリの類(たぐい)は素より、本紙には載せないが数件に上る訴訟事件もある。之等も勿論虚偽や捏造で法規を悪用し、自己の欲望を達成しようとするのである。而も之等は中流以上の人士であるから情ない話である。右は数十年以前から私は訴訟の絶えた事がないにみて明かである。という事は、私は昔から一種の主義を堅持している。

 その主義というのは善人は、悪人に負けてはならない事で、悪よりも強い善が真の善である。事実善人が悪人に負けるから悪人が覇張るので、それが社会悪根絶の出来ない最大原因である。この点特に中流以上の者に多い事で、所謂(いわゆる)智能的犯罪である。又善人が悪人からイジめられた場合、それを告訴したり抗議する事は知っていても、犬糞的シッペイ返しを恐れ、裁判をすれば費用と手数がかかり、打算上馬鹿々々しいから諦めてしまう。故に私の訴訟なども私を善人に見て、之位の事をしても諦めるだろうと高をくくって始めるが、私は前述の主義によって悪に負けられないから勝つまで闘うので、多くは結末までには非常に長くかかる。目下一番長いのは今年で十一年になる訴訟がある。又各地にボスが絶えないのも、官吏の醜聞の絶えないのも、誰知らぬものない事実である。

 以上種々の例を挙げたが、一言にしていえば社会悪の原因は善人が弱いからである、とすれば弱い善人は真の善人ではない。実は意気地なしである。悪に対する憤激が足りないからで、いわば消極的善人である。斯様な善人が殖えた所で、善人自身は悪をする勇気がないからいいとしても、悪の跋扈を許す処の自己安全のみを希(ねが)う一種の卑怯者である。判り易くいえば、悪人共はどうしても善人には敵わない、善人という奴は実に強い、始末が悪い、悪人ではいくら骨折っても駄目だから、悪人をやめて善人の仲間へ入る方がいいというようになれば、社会悪は激減し、住みよい明るい世の中となるのである。

 右の理論を肯定するとして、何程善人が歯ぎしりしても個人では不可能である。とすればどうすればよいかというと、まず善人が団結し連盟を作るのである。名称は悪徳排除連盟とでも言ったらよかろう。こういう案を私は提唱するのだが、之こそ社会改善に対する最も有効手段と思うからである。

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