六月十六日(ご面会ー1)
昨日のお祭りは、箱根地上天国模型完成祝賀記念祭ですが、これは大変な意味があって、つまりいよいよ世界にミロクの世が生まれたという意味になるのです。その事を書きましたから、今読ませます。
御論文〔⇒神仙郷地上天国の大いなる意義〕【註 栄光二一六号】
今読んだように、これは何時かも話した事がありますが、「ゴーラ」という言霊は、「ゴ」は、「火」で、「火」は「霊」です。それで「ゴー」と続けるのは、火が続く事です。「ラ」は「渦巻く事」「螺旋」です。霊界ではいよいよ左進右退的活動が始まるのです。そうするとそれはどういう結果になるかというと、火の霊気はつまり火素ですから、浄化作用が強くなるわけです。そうするとこの左進右退の渦巻が一切のものに行って、或る程度浄化されたきれいなものは中にはいれますが、汚ないものは外にはねられてしまうのです。大浄化作用です。ですから残ったものは善で、はねのけられたものは悪ですから、自然に善悪の立別けがついてしまうわけです。それでこの渦巻を自然に通って、はねのけられない人を作るのが救世教の信仰です。あなた方ははねのけられないでしょうが、しかしあんまり慢心したり取違いをしたりすると危ぶないですから、そこをうまくやってもらえばよいのです。それで中にはスーッと通る人もあるし、通っても閊(ツカ)えたりして、かなり苦しむ人もあります。それでそれが一番現われるのは病気です。これはあなた方が始終浄霊していて、だんだん浄化が強くなって、強くなるとどっちかに片付くのが早くなるのです。助かる死ぬという事がはっきりするのです。これは日のたつに従ってそういうようになって来たという事で充分わかるわけです。ですからこれからは非常に面白くもなるし、恐ろしくもなるし、間違っている間違ってないの結果が早く分るわけです。けれども、私の話をよく聞いて御神書を読んで居れば、そう難かしい事はありません。
それで今までの小乗宗教と違って窮屈なやかましい事はないのですから、本当の意味さえ分れば楽々と峠は越せるわけです。一番肝腎な事は、小乗的に物事を決めない事です。というのは、一番分りやすいのは、人間の考えでは分らないと思えばよいのです。ところが小乗的考えの人は、自分で理窟をつけてそれが本当だと思い込んでしまうのです。だから一生懸命にやりながらかえって間違ってしまうのです。これは大本教のお筆先にうまい事を書いてあります。“人民が良いと思ってした事は、神の眼から見れば間違っている事が沢山あるぞよ”というのがあります。だから良いと思い善と思っている事が、実は神様のお邪魔になる事があります。それは自分の思う事が本当だと思うからです。そう思うという事は慢心なのです。だからお筆先には慢心取違いを一番注意してあります。それで“人民の眼で分るような、そんなチョロコイ仕組は致してないぞよ。神界の事は、分らんと思いたる人は分ったのであるぞよ”というのがありますが、御神書を読めば何処かしらにチャンとありますから、それさえよく気に止めて判断すれば、別に難かしい事も何もないので、かえって楽なのです。だから間違っている事をやっている人は、骨折ってます。いろんな苦しい事をし骨折ってやってますが、それは間違っているからです。楽々と行くのが本当なのです。それが今までの宗教とは違います。今までの宗教は地獄的宗教であって、天国的に救う事はできない宗教です。というのは力がないのです。救世教は天国を造る宗教であるから、そのやり方も天国的やり方でなければならないのです。結局力です。今までの宗教は力がなかったのです。キリストにしろ釈迦にしろ力がないのです。だから理窟はいろいろうまく説くが、実際の力がないから、本当に救えなかったのです。
というのは夜の世界ですから、今までの力は月の力ですから、ごく弱かったのです。だから極楽や天国を造ろうと思っても、どうしても邪神に邪魔されて、思うようにゆかなかったわけです。ところが今度神様は私にその力を与えられてますから、それはなによりも、弟子がキリストと同じような奇蹟を盛んに現わすのでも明らかです。キリストを作る力ですから、それは大きなものです。それで力というものは霊体一致すると力が出るのです。今までは霊体が一致しなかったのです。霊体一致という事は、火と水がチャンと結ぶと本当の力が出るが、今までは結ばなかったのです。というのはキリストは緯の教えを説いて、釈迦は経の教えを説いて、離れ離れになっていて結ばなかったから力が出なかったのです。ですから力という字は、経の棒を引いて緯を結んで十の字になっているが、結ぶと初めて力が出るのです。そうして左進右退に廻り始めるのです。ですから力という字は、十の字になって左進右退に廻るのですが、文字は神様が作ったのですが、実によく出来ているものです。人間でも「人」という字が霊と体になってます。尤も今の人は逆で「入」の字になってます。そういうわけです。
そこで箱根は今も読んだとおり東西の中心です。東が経で西が緯ですから、此処がつまり十の字の真中になるわけです。それで十の字の真中になっている所に初めて地上天国の模型が出来たのですから、いよいよ世界に地上天国が出来るというわけです。ですからこれが大きくなれば世界的になるわけです。そこで開闢(カイビヤク)以来ない結構なものが出来たわけです。非常に目出度いわけで、昨日という日は丁度、建国祭と言えば日本ですが、世界の建国祭、世界の紀元節みたいなものです。ですから本当言うと、一九五三年はもう終りになって、今年は新紀元の元年になるわけです。この間の歌に、新しい紀元が出来るという事を書きましたが、それが分るとなかなか面白いというよりか、はっきりするわけです。そういう事も神様は前から決めてあるのです。ですから此処に天国を造るために、石でもこんなに沢山ある所は箱根中にありません。それで此処だけはそういうようにしてあるのです。又石の種類も多いのです。下の強羅公園も石は多いですが、種類は一色で同じような石です。しかし此処にある石は随分種類がいろいろあります。そのために随分面白く出来ました。それから 渓流でも何でも、丁度うまく嵌まるように準備されているのです。そして強羅は下からだんだん上って来て、此処に来て初めて広い大きな平面の地所があるのです。これは何十万年、何百万年前に神様はこういう形を用意されたわけです。だからそういう事をよく考えると、実に深遠微妙なものです。
それで箱根は「火」で「五」ですが、熱海は「体」で「六」になるので海があるわけです。それで京都が「七」になり、これでミロクになりますが、順序は此処が完成すると今度は熱海はどんどん進んでゆくわけです。熱海の地形にしても、皆知っているでしょうが、ただ面白いと思うのは、箱根は夏涼しくて、熱海は冬暖かいのです。それで里数から言うと僅かで、隣合っているのです。数里離れて気候がこれだけ違ってしまうのですが、こんなに隣合っていて、夏と冬と別々になる気候というのは、外国は知らないが日本ではないと思います。しかもどちらも温泉があるし、風景が絶佳だという事なども、神様がよく準備された事には実に驚きます。又箱根、熱海という所は日本の京浜京阪です。関東関西のごく繁華な中心地の丁度間にあるのです。つまりどっちからでも天国に遊びに行けるという交通の便利なども、余程うまく作られてます。其処に救世教が地上天国を造るという事も、実に神様の用意周到な業を、実際的に造ったわけです。その始まりが強羅で、それから熱海、それから京都、それから世界という順序で出来るわけです。それで世界的ですから、今度は大きくなるわけです。この神仙郷を世界的にもっと大きくしたものも出来るわけです。それはおうよそは分ってます。あとは時が来ればチャンとそういうような準備がつくわけです。それは大いに楽しみであり、興味のある事です。
それでこれだけを見て、普通で言えば何年何十年とかかる大変なもので、とに角財閥か何かの財力でなければ出来ないと思うようなものですが、それがとに角、神山荘に初めて越して来たのが昭和十九年五月ですから、まだ十年にはなりません。この五 月で此処に越して来てから九年というわけです。しかし最初は微々たるもので、おまけにその時代には新宗教というのはとてもやかましいので、手も足も出ないので、宗教という事は言えなかったのです。そこで治療ですが、日本浄化療法という民間治療で誤魔化していたのです。その時分は当局は信仰というものを非常に恐れたのです。ですからどうする事もできなかったのです。それで十九年五月に此処に来て、その年の十月に熱海に越しましたが、その時分には信者といったところで、宗教ではないから、信者らしい者でも百人とは居なかったでしょう。ですからそれこそオッカナびっくりでやっていたのですが、熱海に越したところが、私は警察のブラックリストに載ってますから、東京の警視庁からその土地の警察にすぐ通達が行っていまして、前科者ではないまでも、同様の嫌疑を持たれていたのです。だから熱海の東山荘に居た時は、熱海の警察から来て、塀の穴からのぞいて、今日は男が何人女が何人合計何人と報告するのです。そうして時々は特高などが来ていろんな事を聞いて、年中白い目でギョロギョロ見ているのですから気持が悪かったです。それが終戦になって、よい塩梅(アンバイ)に信仰の自由が許されたので、二十二年八月にやっと宗教法人として宗教的にやる事を許され、それから本当の活動を始めたのです。そうしてみると丁度この八月で六年になります。五年何カ月かでとに角これだけのものが出来、熱海もあれだけに出来たのですから、実に驚異的です。しかもその間それこそ脱税問題とか新聞雑誌のいろんな攻撃、静岡の事件と、いろいろとギューギューの目に遭わされたのですが、そういう目に遭わされながら、とに角これだけに進展して来たのですから、おそらく世界に例がないでしょう。なるほどキリスト教、仏教にしても、日本での宗教の大道場としては本願寺などは信者も相当居ますが、法然、親鸞、蓮如上人が中途に出て、千年以上かかってます。高野山でも千年はかかり、日蓮宗でも六百何十年とかかってます。それでも今のような状態です。割合に進展したのは天理教ですが、それでも百年以上かかってます。ところがこっちは今言ったとおり、精々正味六年です。その前から言ったところで、それまでは民間療法でグズグズしていたのですから、結局十年とはかかっていません。それでこれだけの舞台が出来たわけです。ですから現在でも既成宗教の本山というものに劣ってはいません。これは時代も違いますが、そういうわけで、この力というものが如何に素晴らしいものかという事が分ります。というのは今までのあらゆるものは月の力だったのです。それで救世教が初めて日の力を現わしたのです。それが今言ったような工合にはっきり具体的に現われているのです。そこで日の光がやっと昇ったばかりですから、これからだんだん天の中心に行くに従って光が余計増しますから、それに準じてやはり発展もそうなるわけです。
それで本当に日が出たのは、私の自観叢書にありますが、昭和六年六月十五日に房州の日本寺が始まりですが、あの時は霊界の奥の方、最奥霊界が黎明になったのです。今度は現界の霊界に日が出たのが一昨々年の私が庵原警察の留置所の中で、日が出たと言えばおかしいですが、非常に神秘があったのです。日が出るという事はやはり天照大御神様です。これは古事記にもありますが、天照大御神様が御生まれになる時には、最初天宇豆売命という女の神様が非常に舞うのです。これは岩戸開きですが、それで天照大御神様はその岩の戸を細目に開けて御覧になると、いきなり手力男命が行って手をとって引張るわけです。そうすると五伴男の神様と言って、五人の男の神様が守護して世に出られるという事がありますが、これは勿論寓意ですが、それと同じ型が出たのです。あの時に、知っている人もありますが、差入屋の婆さんで五十近い未亡人ですが、舞いが非常に好きで、舞いを習っているのです。そうして前の晩に大勢呼んで随分舞ったという事を聞いたので、これはいよいよ岩戸開きだなと思ったのです。それで当時引張られた教団の幹部の人が五人ですが、最初は四人だったので、おかしいなと思っていたら、最後に渋井さんが引張られて五人になったのです。そこで五伴男命という事は、梅の五弁になるわけです。大本教のお筆先に“三千世界一度に開く梅の花、艮(ウシトラ)の金神、梅で開いて松で治める神界の世になりたぞよ”というのがありますが、梅というのは非常に重大な意味になっています。それで兄の花姫というのは、兄の花と書くのが本当です。木の花咲爺姫とは違います。これは桜で仏界の働きなのです。兄の花というのは、梅が一番先に咲くから兄の花です。あとはみんな弟になります。桜の方は妹、女の方になります。そこで梅の花が開いて、散りて実を結ぶというのは、梅の花の実は主の種と言ってチョンです。それで、今度の歌にも主の種という事がちょっとありましたが、主の種の花が咲いて、そうして四方に香るという歌が昨日のお祭りの歌の中にありますが、そういうわけです。そこであの当時散花結実というのを書いてみんなに上げましたが、これはその意味なのです。つまり梅の花が散つて、これから実が成るという意味を歌ったものです。これは非常に神秘な話です。そうしてあの時の手力男命は望月という弁護士です。あれが私を引張り出したのです。その時初めて天照大御神様の霊が私の腹に宿るという事になります。それが今だんだん大きくなりつつあります。もう余程大きくなって居ます。それで光がだんだん強くもなるし大きくもなります。その代り浄化も強くなります。しかし別に私がそうするわけではないので、神様がそうするのです。
そういうようで、力という字は、「チ」は「霊」で、「カラ」は「体」という事を言いますが、「空ッポ」という事です。そこに「チ」「霊」がはいるので、生きた人間というわけです。そこで霊と体が組んで、初めて力が出るのです。それでスというものは世界です。それで今までの世界というのは空ッポなので、まだ魂がはいってなかったのです。肝腎な中身がなかったのです。そこでお釈迦さんはうまい事を言いました。“この世は仮の娑婆だ”と言いましたが、確かに仮の娑婆です。本当ではない、一時の間に合わせというわけです。私は「文明の創造」を何時か読んだ事がありますが、“今までは間に合わせだ、本当のものではない”という事を書いておきました。そこでお釈迦さんは“仏教は真如だ”と言った。真如というのは真の如しであって真ではない、仮であって本当ではないというわけです。仏教の方では「実相真如」という事を言いますが、これはあべこべで、「真如実相」が本当です。実相とは本当の魂のはいったものを言います。それで最初真如が出て、それが済んでから実相になるのです。仏の世が済んでから実相世界、神の世界になるのです。そこで大本教のお筆先に“今までは仏の世でありたが、仏力と神力は違うぞよ”というのがあります。それで今までは要するに仏力、月の力です。今度は神力、神の力です。それで神というのは、「カ」と「ミ」、「火」と「水」ですから、やはり経緯という事になるから、本当の力です。ですからつまり仏力という事は本当の力でなかったのです。それで佛という字が人偏という事は、これは人間の力です。この文字はなかなか分り難いですが、片方の弗という字は弓という字なのです。弓に二本の棒を引いてあるのです。弓という事は月の事です。よく弓張り月という事を言いますが、弓の形が月の形になるのです。ですから弓をしぼるとやはり月と同じような形になります。それから神という字は示偏に申としてありますが、これは申ではないのです。やはり○に十で、上下に突き通っているのです。ですから経緯に結んで、これを世界に示すというわけです。神というのは、どこまでも十なのです。バッチの十もその意味なのです。