自己の行いは小乗的に律すべきか、入信後の苦しみ・不幸について、罪と信仰『教えの光』(4、浄霊および信仰上の問題)昭和二十六年五月二十日

自己の行いは小乗的に律すべきか

      【お伺】自己の行いに対してはもっぱら小乗的に律し、他人に対しては大乗的に行くべきが本当でしょうか。

    【御垂示】これは大いなる誤りである。大乗的といえば自分も他人もあらゆることに大乗的でなくてはならぬ。自分を小乗的に律するときはそのため自分自身が拘束され、働きが狭まり力が出ぬ。

      戒律などは小乗的なもので狭い、こうしてはならぬ、ああしなくてはならぬと限界を作ると進歩発展ができぬ。要するに、なにをしても良いという具合でいて、おのずからすべてに渉って法に外れず、道にかなうようでなくてはならない。

  入信後の苦しみについて 

        【お伺】私は東京で戦災に遇い、ただいま他地に住まっておりますが、相次ぐ物心両面の苦しみに堪えかねつつも救いのお道のため、大いに働かせていただきたいと衷心より願っておりますが、それも思うようにできませんが、どういうわけでしょう。

    【御垂示】これは罪穢がたくさんあるためであり、また大きい使命があるからでもある。大きい使命のある人はより磨かねばならない。それがため苦しい浄化はあっても、その人に信仰のある場合、神様は必ずそれに堪え得るような奇蹟や、いっぽう良いことを与え希望を持たせてくださるものである。故に信仰さえ動かなければ、さほど苦しまず必ず一歩々々好転してくる。故に結局は良くならんがための苦しみと覚るべきである。

  入信後の不幸について  

       【お伺】入信してからの不幸災難の原因に対する神の慈悲と恵みについて。

    【御垂示】信仰者に対し神様が恵みを与えようとしても、その人に罪穢があっては神恵を受ける資格がないためである。すなわち入れものの中が汚れているからそれを取り除いてきれいにしてくださるというわけである。

  罪と信仰  

       【お伺】神は浄化をくだし給うて御救いくださる反面、苦痛をも与え給うのは罪業の許しの意味でしょうか。又浄化と関連して死が与えられるということは、いかに考えるべきでありますか。

    【御垂示】罪業の払拭は苦痛によって行なわれるものと、神にすがることによって楽にすむ場合とある。前者は無信仰者の場合であり、後者は信仰者の場合である。

      神からの救いの綱が下っても、それをつかむことのできない人は罪穢が多すぎ、霊体が重くてつかむことができないのである。しかるにその後浄化のため、病気、災難などの苦痛が起り、それによって罪が減るから霊が軽くなり、救いの綱へ手が届くことになる。そのようなわけで、いくら良い教えを説いても、救いの綱につかまり得ない人は、その罪の減るまで時期を待つほかはない。そのとき無理につかまらせても落ちてしまう。しかし右の場合、浄霊を受ければ楽に早く浄化される。

      浄霊によっても死ぬのは、多くの場合心から神にすがらぬからで、その人の信仰のどこかに不純な点があることが多い。いっさいを擲って神にすがる人は不治とみらるる病もたいていは助かるものである。信仰の浅い人は危機の場合、迷いが生じやすいので、そのとたんに神の救いの綱が切れるのである。

タイトルとURLをコピーしました