悪と苦の存在 『教えの光』(1.宗教、科学、哲学、芸術の問題 )昭和二十六年五月二十日

【お伺】人類にはいかなるわけで悪があり、苦がありましょうか。

【御垂示】これは人類を造った神様でなくて造られた人間では判り得べくもない。私も造られた人間であって造った方ではないからその真意は判らぬが、ただおよそその想像はできるわけで、無論なにかの必要があってそういうふうに造られたものと思う。

 元来主神は全宇宙そのものがその御所有物であって善も悪もないが、『神典』にあるごとく、その主神から分かれて霊系の祖が高皇産霊神(たかみ むすびのかみ)、体系の神が神皇産霊神(かむみ むすびのかみ)となられた。これは陰陽の神であり、陽陰はすでに善悪である。そして悪に属する神を邪神、善に属する神を正神という。この善悪が始終摩擦し争闘しつつ人類は生成化育し、今日のごとく輝しい文化の発達をみたのである。この点が人間としての考え方の難しい所で、悪人を造っておいて裁くなら初めから造らなければいいではないか。審判などといって人間を悪い事をするように造っておきながら、罪を罰するとは無慈悲不合理だと言う人もあるが、私としても造られた側に立っているので神意を知り得べくもないが、なんのために悪を造られたかの想像はつく。それはたしかに悪によって善が活動し、文化が進歩を遂げたという事実である。

 しかしながら、人間として悪いことをすると悪い結果が必ず来る。すなわち因果応報で、これは間違いのない事実であり、真理である。どんなにしても善でなくては栄えない。

 人を苦しめれば自分が苦しむ。人を幸福にすれば自分が幸福になる。そうすると善いことをしたほうが得だという結論になるから、人間は善事を目標としなくてはならぬ。

 次に苦しみもなにかの必要があって造られたもので、現実の苦はいかにして祓除(ふつじょ)し得るかである。それは神から苦悩の元たる曇りを除(と)っていただくほかはなく、神仏の光によって除ってもらうのである。本教の浄霊はそのためにできたもので、この浄霊により神の光が放射され曇りは解消し、苦悩はさっぱりと除れるのである。そうしてこの曇りは信仰と徳の程度により、大きくも小さくも除れるのである。邪念や言葉の罪などは、朝夕神仏を礼拝することによって大方は浄められるが、それのみでは本当でない。やはり人を幸福にすることが肝要で、信仰は拝むのみでは本当に救われぬ。まず多くの人に喜びを与えなくてはならぬ。 

タイトルとURLをコピーしました