宗教と分派 (信仰雑話 昭和二十四年一月二十五日)

 宗教には種々の派がある。例へばキリスト教に於てもカトリック、プロテスタント等を重なるものとし、新旧種々の派がある。仏教に於ても、日本だけでさへ真宗、浄土、天台、真言、禅、日蓮等を重なるものとし、その一派が各派に分れてをり、現在五十八派に分れてゐる。神道に於ても神社神道を別とし、教派神道に於ては大社、御獄、扶桑、禊、天理、金光等を重なるものとし、十三派あるにみても明かである。

以上のように何派にも分離するという事は理屈に合わないと思うが、私は斯う観るのである。即ちその原因は教典にあるのではないか、というのは聖書にしても仏典にしても甚だ矛盾難解な点が多く、その解釈に当っては人により区々(マチマチ)の見解に分れるので、勢い種々の分派が出来たのであろう。尤も教派神道はキリス教、仏教の如く大教祖がなく、古事記、日本書紀等の古典を基本としたり、神憑的教義や、教祖の教等によって成ったものである。以上の如く根本は同じ宗教であり乍ら、各派に分離する結果、ともすれば争ひなどを生じ勝ちになるので、宗教本来の使命たる人類愛的教化に悪影響を及ぼす事は勿論で遺憾の至りである。全く其原因が前述の如く教典の難解なるが為である事は議論の余地はない。尤も難解である所に、反って有難味があるという理屈も成立たない事もないが、遍(アマネ)く人類を救うべき意味から言えば、万人の最も理解し易くするのが本当ではないかと思うのである。

以上の如くであるから私は出来るだけ難解を避け、何人にも理解出来得るよう、新しい形式の下に教の道を説かんとするのである。

尚私は漸次政治、経済、教育、芸術等の方面に渉っても、宗教を通じての新解釈を発表するつもりである。

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