常識 (信仰雑話 昭和二十四年一月二十五日)

 抑々、真の信仰とは言語行動が常識に外れない事を主眼としなければならない。世間よくある神憑式や、奇怪な言説、奇矯なる行動等を標榜する信仰は先づ警戒を要すべきである。処が多くの人はそういう信仰を反って有難く思う傾向があるが、之等は霊的知識の無い為で無理もないが、心すべきである。又自己の団体以外の人々と親しめないというような独善的信仰も不可である。真の信仰とは世界人類を救うのが宗教の使命と信じ、自己の集団のみにこだわらず、排他的行動をとらないようにするのが本当である。恰度一国の利益のみを考へ他国の利益を無視する結果、惨澹たる敗戦の苦杯を甞める事になった終戦前の日本を鑑みれば判るであろう。

 私は信仰の究極の目的は、完全なる人間を作る事であるとも思う。勿論世の中に完全という事は望み得べくもないが、少くとも完全に一歩々々近づかんとする修養−−之が正しい信仰的態度である。故に信仰に徹すれば徹する程、平々凡々たる普通人の如くに見えなくてはならない。そうなるのは信仰を咀嚼し、消化して了ったからである。その人の言動が如何にも常識的であり、万人に好感を与え、何を信仰してゐるか判らない位にならなければ本当ではない。人に接するや軟かき春風に吹かれる如くで、謙譲に富み親切であり、他人の幸福と社会福祉の増進を冀(ネガ)うようでなくてはならない。私は常に言う事であるが、先づ自己が幸福者たらんとするには他人を幸福にする事で、それによって与えらるる神の賜が真の幸福である。然るに自己のみの幸福を欲し他人を犠牲にするというが如きは全く逆効果以外の何物でもない事を知るべきである。

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