[メシヤ講座]「教・論・律」について 2006年3月、7月、12月 2016年5月 (私達の学び目からウロコの内容より)

メシヤ講座

メシヤ講座は「教・論・律」の確立を目指して学び合いをする場です。
「教」とは、岡田茂吉教祖の全論文、全講話、全詩歌です。
「論」とは、「教」に照らして世の中を見つめ周辺に起きる事象を判断することです。
「律」とは、論に基づいてどのように生活をするかということです。
メシヤ様の御教えを基にして世の中を見つめ、周辺で起きる事象を判断して自らを見つめ、どのように生きるかを求めます。
メシヤ様の御存在と出会ってもその恩恵に浴することができていない方には、御守護をいただく秘訣を提供します。
メシヤ講座について

「教・論・律」の範を示されている

私達が『みんな光なんだから・・・』というお言葉の字面(じずら)に囚われてしまうと、取り違いをしてしまいます。ここでは、『私は時に応じて説く。まとめるのはきみたちだ』(教会長)というお言葉を重ねて考えておきたいと思います。

メシヤ講座の中で「教・論・律」について触れてきましたが、この考え方は実はここから来ております。

メシヤ様は、御教えを口述筆記されました。その模様は『スイッチを入れたテ-プコ-ダ-のように』(側近奉仕者)と記述されております。生き神様だからこそ、あり得ることであります。そしてその内容は「神様のお言葉」そのものです。

口述筆記されたお原稿は、『多い時は二十回以上も推敲に』(管長)とありますように、何度も朱を入れられ、原稿用紙は真っ赤になっていたそうです。『どう表現したら、もっと信者にわかってもらえるだろうか』(側近奉仕者)と心を砕かれたそうです。

口述された内容そのものは「教」です。そして、推敲されて人々に解り易くするために何度も手直しされてできたお原稿が「論」です。その時代に生きる人々が理解し易くなるように時代性を加味されて、添削されたものです。

そして、御自らが御教えの実践者であられたのです。その実践が「律」なのです。それこそが、私達における信仰生活の鑑そのものなのです。ですから、時の指導者は、絶えず「論」の展開に心を注ぐことに懸命に取り組み、尚且つ自ら実践者たるべく努めなければならないのです。

信者は、その後ろ姿を見て、共に実践に取り組むのです
メシヤ講座特選集平成18年3月

はじめに

メシヤ様には、生涯一貫して実践されたことがあります。

挨拶をする。嘘をつかない。時間を守る。約束を守る。整理整頓をする。物を大切にする。無駄をしない。言葉を大切にする。等々です。

やろうと思えば誰にでもできること、一見簡単な至極当たり前なことを途中でやめることなく、教祖となられてからもず-っと行なわれました。最高位のご神格を有された後も、‘今日ただ今、できることをする’という姿勢を貫いておられます。

また、教祖となられてからのご多忙な毎日でも、全国紙に目を通されチェックし、夜他のお仕事をされつつ奉仕者に読み上げさせておられます。散歩の際にもラジオを携帯して社会情勢に御耳を傾けられておられます。しようと思えば誰にでもできる形で‘情報収集’をされています。

一例ではありますが、この一貫して取り組む御姿こそがメシヤ様の実像です。

『説くのは私、まとめるのはきみたち』の項

≪本文≫

明主様(メシヤ様)は、『私の指導を受けていればいいんだ』といつも言われました。

それで私はある日、「それを、ひとつひとつ守って行けばよろしいのですか」と申し上げますと、明主様(メシヤ様)は、『そうだ』とおっしゃいました。

そういうことから、御神書(宗教篇)をまとめ、整理するという仕事が始まりました。

このことについても、ひとつひとつ伺ったところ、明主様(メシヤ様)は、『聖書だって、弟子が書いたんだ。そういうことは、きみたちのやることだ。私は時に応じて説く。それをまとめるのはきみたちだ。それをいちいち私にきくことはない』とおっしゃいました。

そして、明主様(メシヤ様)は、『これからの若い者は、教えがしっかり入っていなければならない。教えを通して思想性を身につけておかないと、いい仕事は出来ない』とおっしゃいました。(教会長)

≪解説≫

この一文は、私達に大きな示唆を与えてくれるものです。

まず、メシヤ様の『指導』を「ひとつひとつ守って行けばよろしいのですか」という問いに『そうだ』とお答えになっています。救世主としての絶対的な自信に満ち溢れたお言葉です。

このお言葉通りに、御教えに従って実践すれば必ず鮮やかな奇蹟をいただき、私達は確信を深めてまいりました。メシヤ様として現界にお出ましになり、私達に救いの力と方法をお授けくださった訳ですから、その通りにすれば必ず御守護いただけるのは当然と言えば当然なのですね。

換言すれば、御教え通りに実践して御守護をいただけないほうがおかしいのです。また、抱えている問題の解決が許されないというのもおかしいのです。御教えに沿って対応すれば、方向性は自ずから定まるからです。

『時に応じて説く』

守るべき御教えを「教」として、それに基づいて世の動きを見て「論」を展開する。この「論」というものをお説きになることを『時に応じて説く』と、仰ったのであろうと拝察できます。

メシヤ様は、絶対的な救済力をお示しになりつつ、ご自身の御経綸上の位置関係を数々の詩歌で詠まれております。収録されている『詩歌集』を垣間見た上で私達の心得ておくことは、『新聞、ラジオを通して時代の動向を見極め、主神様の御経綸を把握されていた』という点です。これは、私達の歩む道を踏み誤らせないための範でもあります。

『時代の流れこそ、主神様の御経綸の現われである』というご認識がおありになった、ということを私達がまず認識していなくてはなりません。そうしなければ、教線の拡大と共にカルト化してしまう恐れがあるからです。また、大きくなれば既成宗教化してしまう危険性もあるからです。

『まとめるのはきみたちだ』

次に『聖書だって、弟子が書いたんだ。そういうことは、きみたちのやることだ』とおっしゃっておられます。このお言葉が御神業を受け継ぐ者のあり様だと拝察できます。

前述のように決して動かされない「教」があり、時に応じて展開された「論」がありますが、「論」はさらに時代の推移とともに変化することもある訳です。

「世界救世(メシヤ)教 教義」について考えますと、『抑々(そもそも)世界の創造主たる主之大御神(エホバ)は、この地上に天国を樹立するべく、太初より経綸を行わせ給いつつある事を吾等は信ずるのである。』は不動のものです。公式にご発表された御神名も唯一無二です。

ところが、『・・・主神は吾等の教主岡田自観師に救世の大任を下し給い・・・』というところは、現在では変わらなくてはなりません。教主という御座も代わられていますし、まして弟子の立場からすると、『救世主(メシヤ)』という尊称が自然に出てまいります。

メシヤ様は、御自ら『自分がメシヤである』とお述べにはなっていません。だからこそ、聖書を引き合いに出されているのです。また、『救世主八大資格』を述べられ、『その条件を具備する者を見出せば、其(その)時こそ彼に指導を受け、光明を被る事を得る。』とされております。

そして、『開教の辞』の中では、『・・・観世音菩薩の御働きも救世主(メシヤ)のそれとなるのは勿論である、即ち化身仏であらせられた観世音菩薩は茲(ここ)に仮面を脱いで、御本体である神の御働きとなり給うのである。』と明言されております。

そのことから、『主神は吾等の教主岡田自観師に救世の大任を下し給い』というところを『主神は吾等の岡田茂吉教祖に救世主(メシヤ)の大任を下し給い』とするのは当然なことであります。また、その作業もこのお言葉に基づいて執り行ったことなのです。

しかも、教祖のご神格がより明確になり、そのことを信ずるところからご昇天後の新たな信仰が始まるのです。

(「<神界通信>より」参照)

『思想性を身につけておかないと、いい仕事は出来ない』

以上のような基本の上に立って思想というものを考えてみれば、各個人の体験に基づいた発見や学び、悟りというものが‘点’として生まれ、それらが御教えと結びついて線となります。御教えの実践と学びを積み重ねることで、線はやがて面となります。

更に、それらに時代性が加わって原因と結果が把握できるようにもなり、思考が立体化してゆきます。このように立体的な思考体系ができ上がってゆくと、思想性が身に着いてゆくということになります。

メシヤ様は、御教えの拝読を強く求められると共に、『思想性を身につけておかないと、いい仕事は出来ない』と、釘を刺されています。肝に銘じておきたいところです。

そして、前述のように「教」、「論」がしっかり組み立てられて、現代社会でどのように生きるかが「律」です。これが何時もお話しする「教・論・律」で、宗教生活の基本になります。また、この「律」には、冒頭述べましたようにメシヤ様が生涯実践された項目が大前提としてあります。

メシヤ様が示されたそのままに取り組む姿勢が私達にある限り、どのように大きな組織形態となろうとも、自分で自分を守ることができるのです。自分を守るとは、邪神に乗ぜられない、という意味であることは申すまでもありません
メシヤ講座特選集平成18年7月

教・論・律を提示しない宗教の形骸化

家庭教育のみならず、本来人間教育を担うべき宗教も課題を抱えております。原則である「教・論・律」を提示することができなければ「生きた宗教」とは言えず、謂わば形骸化した団体となってしまいます。
メシヤ講座特選集平成18年12月

要するに、御教えとそれに関する考え方、これは「教・論・律」になってきます。御教えという根本があって、それに対して現在の中でその教えに基づいて科学的に理解した場合どういう風になるのか。それが分かったら私達の日常生活はどういう事を心掛けて行けばいいのかというのをまとめて、こういう書籍の形で出すか、Kindleの様な電子書籍で出していくかという事をこれから考えていかないといけないのですが、電子書籍で販売する場合はどうすればよいかいうことも併せて・・・。(笑)
2016年メシヤ講座三重

<学び>
「教・論・律」とはどういうことなのか?
勉強会を開く中で恥ずかしながら、あまり良くわかっていないことが明確になり
新しくなった本部サイトで検索して、まとめて見ました。
そうしましたら、お恥ずかしい事ながら
”メシヤ講座は「教・論・律」の確立を目指す学び合い”であることが分かりました。
考えてみると確かにそうであります。
最初に「教」ありての事ですので、御教えの学びをもっと、もっと頑張らなくてはいけないとともに
このブログを続けることで「教・論・律」の確立出来る部分を広げていきたいと思いました。

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