病貧争絶無の世界は可能か(栄光196号 昭和28年2月18日) 

 本教が唱える病貧争絶無の世界は、この世智辛せちがらい世の中に果して出来るであろうかと、今の人間誰しも疑わざるを得ないであろうが、これも尤もっとも千万せんばんで、昔からそういう夢のような話は色々な宗教で唱えているだけで、到底実現の可能性はありそうもないので、そう思うのも無理はない。処が我救世教は断じて可能であることを、力強く主唱しているのである。その生きた実例として下記の御蔭話を読めば、如何なる人でも信じない訳にはゆかないであろう。若しこれをしも信じられないとしたら、豚に真珠でしかあるまい、と曰われても文句は言えないであろう。とすれば人間の価値はなく、動物と同様になる理屈だが、実はこれも無理はない。今までは言葉だけで、地上天国などという御題目でしかなかったからである。処がここで従来の御題目を捨ててもいいことになった。それはまず白紙になって左記の事実をそのまま受け入れられれば、それで直に天国の門に入る資格者となるからである。

主人の入信記

   茨城県  O.K(36)

 馬鹿この野郎とは毎日の事、御金は無く、まして病人の絶え間とてなく、益々増えるものは借金ばかり、借金とても限度があり、又も又もと借りに行けば遂に借りることもできなくなり来る日も来る日も不安の連続、どこまで不幸な私達一家なのだろうか、いやいや不幸の種は主人にあるのだ主人さえ一生懸命に働いてくれればどうにかなるのではないか……今日も又半年も前より長女K子(当時三歳)のルイレキを治して戴くべく背におぶり、一歳になるH(特に病弱)を家に寝かせて病院に通う足は重かった。病院に着いて見ればいつものことながら待合室は大勢の患者さん、Kの番まで来る時はすでに昼近く、出掛けに飲ませて来たお乳もいつの間にかぱんぱんに張り切れんばかり、「この子のルイレキは治るのでしょうか」と問えば「こんなにひどくてはとても駄目です。どうしてもこの大きい方の三ッだけは手術をしなければ命は無いものと思って下さい、手術をしても後のこまかくできているのはどうしようもない」と悲しい言葉もついこの二日前のこと、一日も早くよくなって貰いたいばっかりに無い御金を無理してまで通ったものを、最後の言葉は余りにも冷い言葉でした。どうしよう、手術をして戴こうか、それには余りにも大変な御金が必要になる。しかし手術をしなければただ死あるのみ、ああ神様本当に神様があるのでしたら何とぞ何とぞ私達を御救い下さい。幾度か死を覚悟しては後に残る子供達のことを思い、いやいやこんな弱い母ではいけないとくじけ勝な心に鞭を打ちながら生きては来たものの、又もや子供と一緒に死ぬ方が幸福かも知れないと次第に死の連想が深まってゆくのでした。

 夢遊病者のごとくとぼとぼと帰路についた私の前に突然「Oさん」と言葉をかけられ、はっと我に帰り頭を上げるとそれは近所の方でした。その時初めて救世教(当時観音教)のことを聞かされ、夢かとばかりに喜こび、助けたい助かりたいと夢中でお話をお聞きし、今まで引きづり勝な足も軽々と早速水戸支部へ御参りさせて戴き、色々と教世教の有難いお話をお伺い致し「絶対治ります」と先生より力強く申された時の嬉しさ、ああお救い戴けた神様はほんとうにお出になるのだ、有難う御座います、と下げた頭はいつまでもいつまでも嬉し涙と共に上げることができませんでした。そうだ私も御守様を戴き、少しでも御用をさせて戴き、一日も早くお救い戴きたいと、それより早速一日三十円の日掛に入り、遂に御許しを戴き昭和二十五年五月五日に御守を拝受致し、嬉し涙は次々とほほを伝わりました。その間にも種々と御守護を戴き、ルイレキも三カ月目にはブヨブヨに化膿致し、皮が切れると同時に多量の排膿があり、現在ではすっかりというところまでにさせて戴きました。

 次には御屏風観音様を御奉斎致すべく心掛けている内、お許しを戴きましたら長男のツンボが一ぺんに聞えるという奇蹟、又H子の肺炎の御浄化等数え上げれば限り無い程の御守護を戴きました。

 しかし主人は一向に解らず「それは時機が来て治ったのだ。手を翳かざして病気が治るのなら医者や薬は必要ないではないか」と御決り文句です。働けど働けど暮しは困るばかり、又益々気鬱きうつはつのり夜になれば晩酌はし、小さき四人の子供等を前に、一人でお魚を食べ酔がまわれば例のごとく「馬鹿この野郎」の連続、子供の頭を刈るのにも、理髪代も出してはくれず、一同の寝静まるのを待ってはそっとはさみで刈りでき上る頃には夜中の二時頃、余りの情無さに枕をぬらすことは幾度か、主人の留守に支部へとんで行ってはその度ごとに先生より、色々優しく諭されては気をとり直し、主人が一日も早く真人間になってくれることを神様に御願いして帰っては、ほっとする間もなく仕事に追われ、努めて明るくしようと思っても、そこは信仰の浅い女故次々と出るのは涙ばかり。滂々ほうほう毎日涙の明けくれも、そっと御守様に手を当てては、そうだ神様に申しわけがない、こうなったのも皆私の真心が足りないからなのだ、総ては神様がなさっておられるのだ、と励ましておりました。

 教会へ行けばA先生が「どんなことがあっても腹を立ててはいけない。どんなに解らない御主人でも、あなたが本当に真心をもって神様にお願いすれば、きっときき届けて下さいます。すべて時機です。必ず御主人の解って戴ける時機があります。又不平は不平を呼び喜びは喜びを生みます。あなたの考え方一ツで不幸は幸福と変るのです。たとえば世間で言う病気も風邪は万病の元が救世教では浄化作用であり、一番有難い健康の元です。不平不満は悪魔に通じ善は神様に通じます。病貧争をなくすべく神様の御用をさせて戴いている信者さんがそのようでは、とてもお人は救わせて戴けません。まず精神だけでも天国に致しましょう」と常に私を励まして下さいました。我慢しよう怒らないようにしましょう、これが私にとって一番必要な修業なのかも知れない、と常に心を強く持つことに努めさせて戴いている内に主人も幾分ずつ解って来るような気が致します。有難いもう一息だとなお一心に支部へ御参りをできるだけ多くと心掛け、又子供達の浄化の毎にお救いを戴いている内、遂に神様は主人をお救い下さる時機を与えて下さいました。長男Tが急激なる頭痛の御浄化を戴き、主人に支部へお願いに行って下さるようにたのみますと、相変らず一杯機嫌にて引受けて下さいました。家を出たものの、どうしたことか一時間二時間と経過すれども帰って来ないため、益々不安は増すばかり、どうしたことだろうないつものことながら途中で遊んでいるのでは無いだろうか、それとも支部に先生方が御出ではないのかしら、刻一刻が本当に心配です。一心に御浄霊はさせて戴きながらも、あれやこれやと思い出されるのは悪いことばかり、こんなことではいけないと心に鞭うちながらなお待つことしばし、ガラガラと表の戸を開ける音、ああ帰って来たほっとするのも束の間、主人一人でぼんやり帰って参りました。

 話によれば電車を待っている内に酒のためついふらふらとしていたのが、いつの間にやらほんとうに眠ってしまったとのこと、目が醒めた時には最早電車もなく仕方なく帰って来た。聞いてびっくり、なんてまあ家の主人は暢気なのだろう、子供がこれ程の浄化なのにしかし驚いている時ではない、解らない主人を頼んだのが悪いのだ、早速私が連絡にゆきますと夢中で支部まで行きましたところ、徳永先生と新井先生はまだ起きておられ、浄化の様子を簡単にお話し致しますと「それは大変だひょっとすると脳膜炎かも知れない」とのこと、早速新井先生が自転車をとばして下さいました。本当に良かったと私もすぐ御いとまをして帰路につく。家に着いた時は既に御浄霊中でした。あれ程あった熱もすっかり取れ、普通と変らない程になっておりました。暫らくして「もう大丈夫」と先生がおっしゃって下さった時のうれしさ、病気でさんざん悩んだ方でなければこの嬉しさは解りません。「医者でしたら脳膜炎は良くなっても馬鹿になるとか聞いております。お父さん今度こそは本当に解ったでしょう。神様はこの通り御出になるのです。どんなに疑っていても神様はお救い下さるのです。しかし次々とこのように奇蹟を見せられては早や疑う必要は無いと思います。どうぞお父さんも信じて下さい。又徳永先生も明日お父さんに来るよう申しておりましたから、敏男を連れてお礼参りに行って下さい」と涙ながらにお話すれば、さすが頑固な主人も頭を上げることができず、ただうなずくばかりでした。

 朝になるのが待ち遠しかった。朝になると主人はTを連れてて「じゃあ行って来るよ」と元気な声を後に支部へと急いだ、主人の帰りがとても永いような気がするなと窓を見れは一点の雲もない日本晴「おい俺も今度はお守様を戴くことに決めて来たよ」帰るより早く主人のはずんだ声、ああこの一言どんなに私は待ったことでしょう。どんなに辛いことも悲しいこともこの一言をききたいばっかりに我慢をして来た私でした。余りの嬉しさに涙はとめどもなく頬を伝わります。明主様有難う御座います。ただこの言葉以外には申上げる言葉は有りませんでした。光陰矢の如しとか、主人も入信させて戴きまして早一年、あれ程頑固な主人も今ではすっかり別人のような変り方です。現在では私の方がお参りが少ないと「お前ももっとお参りに行かねば駄目ではないか」とあべこべに叱られる始末です。病貧争と常に絶え間の無かった私達一家もかくして歩一歩と天国的生活に近づかせて戴いております。そしてできないながらも、少しでも多く御用をさせて戴くべく逢う人毎にこの事実をお話し致し、又御浄霊も出張までもさせて戴いています。毎日涙の明け暮れも今は歓喜の明け暮れと変らせて戴きました。世の悩める皆様、どうぞ救世教の門を叩いて下さい。迷信だの邪教だのと世間では申しておりますが、それは救世教の内容を知らないためです。まずふれて見ましょう。そして実行して見ましょう。どんなことでも必ず満足な解答が得られます。世間には種々な教えがありますけれども真の救いはこの救世教以外には絶対にないと私は声を大にして叫びます。

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