神懸り宗教(光号外 昭和24年5月30日③)

 今日新宗教とさえいえば、一般はすぐ神憑的のように思うが、これも無理はない、何しろ璽光尊や踊る宗教など、常軌を逸したようなものが目立つからで、また言論機関は興味中心から真先に取上げるという訳で、教線は微々たるものであっても、大きくクローズアップされるのである、それに引換え真面目な常識的な宗教は割合教線が大きいに拘わらず、一般に知れ渡らないのが実情であったという訳で、小なる神憑宗教が、大なる真面目な宗教を覆い隠すという訳である。

 この意味において、本教なども発展の割合には知られていなかったのである、もちろん宣伝や売らん哉主義は一切用いなかったからでもある、それがたまたま税金問題によって一躍舞台の上にノシ上げられた形となったので、新聞ラジオ雑誌等にジャンジャン騒がれるようになった事は、今や日本中誰知らぬ者もない程である、処が吾々は凡ては神の意図によるものと信じている以上、これも時節到来、積極的に転換すべしという神意と解釈し、神のまにまに宗教活動しつつあるのが現在である。

 処が、自観先生は今日迄吾等が聞知した処の各宗の開祖と異り、神憑り式や、奇妙なる言動を非常に嫌われる、常に諭される処は常識を神様とせよとの御言葉によっても充分窺知されるのである、またこういう事も言われる

 神とは、言い換えれば完全なる人間という事である、故に人間は努力次第で神にもなり得るのである、そうして本当の宗教の行り方は一歩々々完全人間即ち世にいう人格完成に近づかんとする努力の生活であらねばならない、しからば完全人間とはいかなる意味であらうかというと真理即ち神意を骨とし、人間生活を肉とみるのである、即ちいかなる不正にも誘惑にも動かざる確固たる精神を内に蔵し、常に天空海活的心境に在って、日常の言動は融通無碍時所位に応じ何物にも拘泥する事なく、千変万化身を処すべきである、また規律を尊び、怠惰を嫌い、万人を愛し、人に接しては春秋の気候の快適のごとく、何事も極端に走らず、人に好感を与える事を之努め、親切謙譲を旨とし、他人の幸福を念願し、人事を尽して神意に任せる態の信念をもって進むべきである。

 人事百般完全は望むべくもないが、一歩一歩その理想に近づく努力こそ、人として最尊最貴のものであり、かくのごとき人間こそ生甲斐ある真の幸福者というべきである、もちろん信仰の妙諦もこれにあるので、この様な人間の集団こそ地上天国でなくて何であろう。

 以上が大先生の常に言われる箴言である。

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