正月早々お説教的な事は言いたくないですけれど――よく、邪神、邪神と言ってますが、邪神が一番目掛けているのは、信者なんです。それで、大きな問題ではないんですが、時々小さい問題が、教団の中にあるんです。処が、信者さんの場合は、邪神にやられても、世間の人がやられる様なのとは違う。世間の人は、本当に悪い事をするが、そうではない。信者さんが邪神にやられると、良い事と思っている事が、結果が悪いんです。それを注意しなければならない。信者さんは、これが教団の為だと一生懸命やる。それが、実は反対の結果になると言う事がよくある。この間九州で起った問題は、一軒の家で、そこの娘さんか何かが病気で死んだんですが、それで、医者にかからなかったとか言う問題ですが、それは誰がそうしたかと言うと、そこの家の長男ですが、病人は二十幾つかの娘で、その兄貴ですね。地方の新聞に投書したらしい。今迄そう言う問題を見ますと、必ず青年が問題を起すんです。起すんでな,く、問題にするんですね。譬えて見れば、その家の親が死ぬとか、兄妹が死ぬとかする場合に、不断から――浄霊している時から反対しているんです。そんなインチキ宗教で、病気を治すなんてけしからんと言う。今学校で教育を受けた者なら、そう考えるのもしょうがないです。唯物教育によってそう言う思想になっているから、たまたま家の誰かが信仰で病気を治そうとすると、反対ではないが、憤激的になるんですね。そんな様な具合ですから、病気も治り悪いんです。その想念が邪魔していますからね。ですから何時も言う通り、一家の内で非常に反対する人があったら、触れない方が良い――止めるんですね。その霊が邪魔するんです。だから結果が悪いんですね。すると、そうれ見た事か、俺が言った通りだ、じゃ問題にしてやろうと言う事になる。法律的な事はないんですがね。地方新聞なんかに、よく出る様ですが、そこで一家の内に非常に反対する人がある場合――そう言うのは見合わせる。病人は頼りますから、――中々それを振り切る、と言う訳にはできない。そこの処を旨くやるんですね。成るべく、そう言うのは避けると言う方針にした方が良いですね。問題の起るのは、皆んなそうですね。それから、たまには妻君なり娘とか息子とか言う場合、本人が縋って来るから、やってやる様なものの、親父が反対する場合に、死にでもすると、それを問題にしたがるんです。非常に面倒ですから、とにかく反対者のある場合――一軒の家でね。注意して成るべく避けると言う方針を取った方が良いですね。問題を起すと言うのが一番面白くないんですからね。いくら一生懸命やっても、逆になりますからね。そう言う場合に、大乗的に見れば良いですね。そう言う病人に限って、面白くないです。病人は縋って来るから、何とかして助けてやろうとするが、家の人が反対するので、何となく気持ちが悪い。それで、引っ込みがつかなくなって、パッと死んじゃう。私なんかも、昔あったんですがね。そう言うのは避けるんです。薄情な様でも、パッと振り切るんです。それが、大局から言うと教団の為になる。それで、結果においてスラスラいって、有利ですね。ですから、何時も神様の事は算盤を取らなければならない、と言うのは、そう言う訳です。どうしても、大乗は小悪を伴うんです。大愛でいっても、少しの悪はどうも止むを得ない。ですから、多く助け様と思って、利他愛でやった処で、少しは――随分、情けないと思う様な人もありますが、大局から見て有利の方をやっていくより仕方がない。それでないと、かえって神様の御神意に適わない事になる。だから、神様は人類全部を助けるとは言われない。助かる者と滅びる者とできると言うんです。それが、最後の審判ですよ。最後の救いではないんです。審判と言うのは、やはり――罪人は罰せられると言う訳です。ですから、そこの点が非常に難しいんです。そこで、どうしても大乗的にいかなければならない。小乗だと、あんなに縋って気の毒だとなる。それに、ひかされている。それは小乗になる。だから、今言う反対者に遭った場合は、注意すると言う事だけ心得て置くんですね。大分長くなったので、話はその位にして、「寸鉄」を。