それから、今お話しようと思うのは、大体今年には変わりないが、今年から特に、信者の人は、方針と言っては変だが、今迄知っては居ながら、どうも実行し得ない点ですね。その二、三の事を、今年の座右の銘とでもして聞いて貰いたい。何時も言う通り伊都能売ですね。伊都能売の働きにならなければいけない。と言う事は、つまり大乗と小乗――大乗が緯で、小乗が経ですからね。それを結んだ真ん中が伊都能売だと、始終言ってますが、処がどうしても、大乗になったり小乗になったり、片っ方にずれちゃうんですね。結ばない。結べないんですね。そう言う人が沢山ある。これが根本なんですよ。メシヤ教の意味と言うのは。そこにあるんです。今迄の宗教は、みんな――経か緯かなんです。どっちかです。結んだものは一つもない。結んだ宗教はないんですからね。これは宗教に限らず、みんなそうです。今の米・ソの問題もそうです。ソ連は経で、アメリカが緯で、これはいずれは結ぶんですが、今は結ばないで、両方が極端な考えでやってますから、その為に多くの人類が犠牲にならなければならない。そう言う訳なんです。で、経と緯を結ばないと極端に行っちゃうんです。その点がいけないんです。それについて――今朝も「おぞうに」を食べる時、モチがブツブツで、装うと一つのおモチが、五つにも六つにも分離している。纏まっていない。なぜかと言うと、明主様が良く舂いたのはお嫌いだから、成るたけザクザクした方が良いと言うので、舂かな過ぎちゃった。だから私は言ったんです。このおモチは明日からお茶漬けに食べると言った。みんな分離してしまうんですからね。お茶漬けにちょうど良いんですよ。これも極端なんですよ。私は、あんまり良く舂かないのを好きですからね。そうするのを、あんまり極端にやっちゃった。それから、明主様は歯がお悪いから、薄い方が良いと言うので、こんなに薄くしちゃった。だから余計ザクザクです。お前達もそうかと言ったら、いいえ違います。見た処――自分達は、こんなに厚いのを食べている。舂き直しましょうか、と言うから、元日早々舂く奴が――と言った。明日から、お前達の食べるモチを食べさせてくれと言った。つまり、これが極端なんです。で、これがやはり伊都能売でないんですね。だから、凡ての問題について、やはり経緯結ぶ――ちょうど真ん中ですね。それに行かなければならないですね。処が世の中の事を見ると、どうしても結びの所にいかないんです。この間も、ラジオの政治問題ですね。自由党、民主党、社会党のね。その幹部の人が、みんな、自分の党についての披露や何か喋りましたが、これを良く見ると、やはりどっちかなんです。ちょうど良い所になってないですね。大体、資本主義とか社会主義とか言う事が、違うんですからね。資本主義でもいけなければ、社会主義でもいけない。またどっちもなくてはいけない。そこの――何でもない様な事で、ちょっと難しいんですが、難しいと言う事は、今迄偏った事の癖がついてますからね――人間は、そこで、両方混ぜると言う事が、非常に難しく考えるんです。実は易しいんです。ですから、私は何時でも、お菜を食べる時に、甘いか辛いか――どっちか多いんです。そこで、何時も教えるんですがね。甘からず辛からず――中位の味が良いんだ。中々難しいですねと言う。いや難しくないんだ。私などから言えば、非常に易しいんだ。良く言うですね。どうも、実に陽気が悪い。なぜと言って、寒い様な暖かい様な――どっちにして良いか解らない、と。しかしそれが一番良いんじゃないか。つまり、そう言う――今迄の人間の思想ですね。あるいは習慣とか、凡てそう言うものに、皆んな慣れないから、どっちかに偏っちゃうんですね。ですから、信仰も片っ方は馬鹿に窮屈な、まっすぐな信仰ですね。大変良い様ですけれども、そうかと言って、片っ方は馬鹿に融通がきいて楽そうで、どうも――あれで信仰は良いものかしら、あれで信者かしらなんて言う人がありますから、やっぱり両方偏るんです。そこの旨い調和ですね。そう言う風な一つの修業ですね。今迄の修業と言うのは、恐ろしく骨の折れる、苦しいのが修業と思っているが、これはそうでない。かえって楽になる修業ですね。やり良くなる修業ですね。そう言う事は、一番肝腎な事として、その修業をやられたいと思うんですね。
それから、凡ての信仰的の考え方ですけれども、やっぱり今と同じ様に、自分も良し人も良し、人も良し自分も良し、と言うのでなければいけないですね。よく、戦争時分なんかも、滅私奉公なんて言いましたが、あれはいけない。極端ですね。滅私と言うのは、自分を滅すと言うんだからね。自分がなくなっちゃ、奉公なんかできない。しかしあれは、私を滅すると言う――私利私欲をなくすると言うんでしょうが、これもやはり極端です。だから、伊都能売式に言えば、人も良し自分も良し――これでなければ続くものではない。自分だけは犠牲になって人は良い、と言う事はいけないし、人を押しつぶしても自分が良く、と言う事もいけないですね。両方が良くなければならない。そんな旨い事ができるかと言うが、できるんです。むしろ、自分が良ければ人も良い、と言うのができ安いんです。今迄は知らなかったんですね。大本教のお筆先にこう言う事があった「人良かれの信心でないと、神の気持ちにかなわぬぞ」人良かれ――これは旨い言葉ですね。それから「今の世は、自分さえ良ければ人はどうでも良いと言うむごい心になり居るから――」とある。ですから、大本教では「我良し信心。」と言うのがありますね。これはもちろんいけないですね。私の〚信仰雑話』にある通り、自分が幸福になりたければ、人を幸福にする。何処迄も愛ですね。他人を幸福にすると言う――これが欠けていてはいけない。これが伊都能売になる。自分を捨てて人ばかり良くすると言うのも極端で、自分さえ良ければ人をぶっつぶしても良いと言う――これも極端です。
それから――今日はお説教じみた事が多いですけれど、邪神ですね――邪神が中々活躍しているんですよ。この間も言った通り、邪神と言うものは、信者を一番目掛けている。処が信者は、自分は神様の御守護があるから――邪神は信者でない者に憑いて、そうして邪魔すると――こう言う風に思い勝ちなんです。そう言う事はあるにはありますが、処がそう言う邪神は、極く力の弱い邪神なんです。邪神の方のへっぽこですね。処が邪神の方で、力――腕のある奴は、信者に憑るんです。これが怖いんです。それで――憑っても、決して悪い意味じゃない。信者ですから、間違った事や悪い事を考える事はしない。「これが良い。こうするのがお道の為になる」と思わせると言う――これが怖いんです。そうすると、これが教団の為になると、その人が思ってやるが、それが知らず知らず、教団のお邪魔になったり、不利益になったりする事が良くある。ですから、邪神を気をつけるのは自分ですよ。自分のやり方は、邪神にやられているんじゃないかと、審神するんですね。そいつは大いに必要です。ですから、そう言う場合に、よく――こうした方が良いか、ああした方が良いかと迷う時があるが、そう言う時は大乗で見ていくんですね。教団全体から見てどうかと、処がどうも――人間と言うものは、自分達の会なら会を盛大にしょうと言うんですがね。それは大いに結構ですがね。その位の自信を――優越心がなくてはいけないですが、その為に他の教会なら教会に影響させて、自分が良くなろうと言う――この点がいけない。ですから、自分の会も良くし――他の会も良くなると言う様な意味から言えば結構ですが、そう言う時に、ちょっと自分を審神するんですね。自己批判ですね。難しい事はない。直き解る。そう言う時を狙って邪神がよくやりますからね。だから、その点を改心するんですね。