御論文

信仰雑話

敗戦の教訓 (信仰雑話 昭和二十四年一月二十五日)

日本が敗けたという事は、日本が救われたのである。成程一時は悲観のドン底に陥り、上下を挙げて未だ曽て経験せざる混迷状態に陥った事は吾々の記憶に新たなる処であるが、実をいうと、それは一時的であって、将来を想う時は悲観する処ではない、
世界救世教奇跡集

神様も御手数が掛る (世界救世教奇蹟集 昭和二十八年九月十日)

現代人は残らずといいたい程、宗教特に新宗教を蔑視し、信じなければならない程の事実を見せられても、疑いが先に立って中々信じようとしないのは困ったものである。この原因こそ医学迷信のコチコチになり切っている為であるのは言う迄もない。
世界救世教奇跡集

超奇蹟 (世界救世教奇跡集 昭和二十八年九月十日)

この御蔭話の奇蹟は奇蹟以上の奇蹟であって、恐らくこれ程の超奇蹟は人類史上空前であり、医学関係者は固より、普通人が読んでも只唖然として言葉も出ないであろう。これこそ世界的大問題として取上げてもいいと思うのである。私はこれを読みつつ驚きと共に涙が溢れて来てどうする事もならなかった。
世界救世教奇跡集

病気に就いての奇蹟 (世界救世教奇跡集 昭和二十八年九月十日)

今迄のは病気以外の奇蹟であるが、今度は病気に就いての奇蹟であるが、その前に 断っておきたい事は、勿論全部が本人の手記その儘であるから、文中冗漫な点や感謝の言葉など、どれも同じようで五月蝿いかも知れないが、些かでも直さない方がいいと思うからそ...
信仰雑話

宗教と芸術 (信仰雑話 昭和二十四年一月二十五日)

今日迄、宗教と芸術とはあまり縁がないように多くの人に思われて来たが、私は之は大いに間違ってゐると思う。人間の情操を高め、生活を豊かにし、人生を楽しく意義あらしむるものは、実に芸術の使命であろう。
信仰雑話

宗教と政治 (信仰雑話 昭和二十四年一月二十五日)

犯罪の根拠は人間の内面にある魂そのものであるからである。此魂を浄化する事こそ真に効果ある方法で、それは正しい信仰以外他にない事を私は信ずるのである。 
信仰雑話

常識 (信仰雑話 昭和二十四年一月二十五日)

先づ自己が幸福者たらんとするには他人を幸福にする事で、それによって与えらるる神の賜が真の幸福である。然るに自己のみの幸福を欲し他人を犠牲にするというが如きは全く逆効果以外の何物でもない事を知るべきである。
第十二篇「自観説話集」

信仰の種類 (自観叢書十二 昭和二十五年一月三十日)

右の中、どれにも該当しない信仰でありとすればそれは正しい信仰である。
信仰雑話

正しき信仰 (信仰雑話 昭和二十四年一月二十五日)

「疑は信の初めなり」という事があるが、之は全く至言である。私は「信仰は出来るだけ疑へ」と常に言うのである。世間種々の信仰があるが、大抵はインチキ性の多分にあるものか、そうでない迄も下の位の神仏や狐、狸、天狗、龍神等を的(マト)としたものが多く、正しい神を的とする信仰は洵に少ないのである。
信仰雑話

誠 (信仰雑話 昭和二十四年一月二十五日)

世界も、国家も、個人も、凡ゆる問題を解決する鍵は『誠』の一字である。
信仰雑話

『信仰雑話』序文 (信仰雑話 昭和二十四年一月二十五日)

人間としての凡ゆる苦しみを体験したような気もする。その半面神の守護、人々の支援等も尠からずあって、苦楽相半ばするという訳であった。それ等によって神仏の実在、信仰の妙諦、生と死との意義等々、幾多の貴い経験を経て知り得た中から、興味あるもの、教訓に富んだもの等を集録して成ったものが此著である
世界救世教奇跡集

スポーツの奇蹟 (世界救世教奇蹟集 昭和二十八年九月十日)

私は知らず識らずのうちに手をかざしていた。今私の目の前でサーブをしようとしているその生徒を目指して……。やがてその生徒は構えた。身構えると同時にものすごい第一球が飛んで行った。セーフ。敵はただ見過した。第二球。
第二篇『無肥料栽培法』

無肥料栽培 『自観叢書二 昭和24年7月1日)

私は斯う思うのである。それは日本人中真の野菜の味を知っている者は幾人あるであろうか、恐らく滅多にないといっても差支えあるまい。勿論農作物は化学肥料と糞尿肥料を施さぬものはあるまいからである。之等の肥料を吸収する野菜は、天与の味わいは逃げてしまうのである。それに引換え土自体の栄養を吸収させるようにすれば、野菜それ自体の自然の味わいを発揮するから実に美味である。
第二篇『無肥料栽培法』

自観叢書第二篇 『無肥料栽培法』 「序文」(自観叢書二 昭和二十四年七月一日)

私によって提唱された無肥料栽培の理論ほど、読む者をして其あまりに異説に唖然とし、到底信じられないといふのが一般の観方である。事ほど左様に、農作物ばかりではない、人間自体が肥料中毒に罹ってしまってゐるのである。
第十篇「神示の健康法」

私の健康法 (自観叢書十 昭和二十五年四月二十日)

以上が私の健康法である。勿論黴菌などには無関心である。故に一般人には反って不養生に見へるが実は之が真の養生法である。何よりも右の方法を実行すれば誰でも健康になる事請合である。
第十篇「神示の健康法」

予防接種と結核 (自観叢書十 昭和二十五年四月二十日)

以上の如き劃期的神医学は病理も治療の方法も、既に完成してゐる事で之を知らない人達は迷信と断じ、一顧だも与えないのであるから、其人達こそ吾等から見れば恐るべき迷信に掛ってゐるといへよう。
第十篇「神示の健康法」

ワクチン禍の実例 (自観叢書十 昭和二十五年四月二十日)

昭和二十四年九月二十一日毎日新聞投書欄に「ワクチン禍」と題した左の如き記事があった。
第十篇「神示の健康法」

軽視出来ない事実 (自観叢書十 昭和二十五年四月二十日)

私が以前の著書に、日本の農民が菜食だからアレ丈の労働に堪える、もし肉食だとしたら、 直に参ってしまふと記した事がある。又、菜食者の長命である事は事実であって、彼の有名な英国の文豪ショウ翁は、今年九十三歳で、矍鑠(カクシャク)としてゐるのは彼が菜食の為である。又、禅僧の長命もそうである。十数年前百十二歳で死んだ禅僧、鳥栖越山師の如きは、死の直前まで矍鑠(カクシャク)としてゐた
世界救世教奇跡集

奇蹟以上の奇蹟 (世界救世教奇跡集 昭和二十八年九月十日) ※水中の感電死より蘇る

この報告は信者以外如何なる人でも、到底信ずる事は出来まい程の一大奇蹟であ る。これを端的にいえば、神力の如何に絶対的であるかという事で、恐らくこの事実に対し世界中の学者が残らず額を集めても、片鱗だも分り得ないと共に、彼のキリストの奇蹟もこれに比べたなら御気の毒だが大したものとは思えないのである。
第十篇「神示の健康法」

細菌恐るべき乎 (自観叢書十 昭和二十五年四月二十日)

然らばそんな結構な方法はどうすればよいかというと、何よりも先ず細菌が附着しても絶対発病しないというような健康体になればいいのである。恰度軍備の弱い国が戦争を恐れると同様で、敵に侵されない丈の軍備が充実しておれば、何等の心配はない訳である。茲に本教浄霊の偉大さがある。本教浄霊によれば真の健康体になるから、細菌の侵入などは問題ではない。
第十篇「神示の健康法」

疫痢 (自観叢書十 昭和二十五年四月二十日)

疫痢は猛烈な浄化作用で、その浄化発生の直前食べた食物に罪を着せるという訳 で全く真の原因が解らない為だ。
第十篇「神示の健康法」

寝冷 (自観叢書 昭和二十五年四月二十日)

下痢は毒素の排泄作用である以上、寝冷は結構ということになる。此の例として、私は若い頃から腹巻は決して巻かない。
第十篇「神示の健康法」

身体をこわす (自観叢書十 昭和二十五年四月二十日)

実は病気とは身体をこわす処か、身体を調える為のものである。よく下痢をすると、お腹をこわしたからというが、実は健康に有害な毒素が排泄されるので甚だ結構な事である。
世界救世教奇跡集

雷火恐怖症 (世界救世教奇跡集 昭和二十八年九月十日)

左の御蔭話の人は、雷恐怖症であるのは勿論だが、この原因は何かというと、この人は前の世雷火で死んだその時の恐怖が霊に染みついていて、霊界生活が短かかったのでまだ除り切れないまま生まれて来たのである。
第十篇「神示の健康法」

日本脳炎は果して蚊の媒介か (自観叢書十 昭和二十五年四月二十日)

近来、医学に於ては日本脳炎の原因は蚊の媒介としているが、之は全然誤りである。それに就て吾等の研究を発表してみよう。
第十篇「神示の健康法」

人体は綜合的である (自観叢書十 昭和二十五年四月二十日)

現代医学が如何に間違っているかをかいてみよう。それは種々専門的に分類されてる事である。内科、外科は元より脳神経科、耳鼻咽喉科、眼科、泌尿科、婦人科、小児科等々であるが、考へても見るがいい、人形の様に手足や胴体を別々に造って繋ぎ合せたものではない、全体が相互関係で成立っている。これに就いて二、三の例をあげてみよう。
第十篇「神示の健康法」

乳幼児の健康 (自観叢書十 昭和二十五年四月二十日)

成人するに従ひ、西洋流の食物を漸次的に混ぜるやうにすればよい、先づ乳幼児から五六歳迄は、日本流の食物で育てる方が確かに健康にいゝ事は、私の幾多の経験によって断言し得る
世界救世教奇跡集

霊光自由無碍 (世界救世教奇蹟集 昭和二十八年九月十日)

御守の光が印画されていたのであるから、驚くべき現象である。次にこのレントゲン撮影が完全に出来ないと職業にありつけない為、神様に御願いした処、今度はチャンと写ったので、希望通りになったということである。これをみても神様の自由無碍な御守護の力の偉大さは言葉にも表わせない
出版別御教え

悪の追放 (栄光百七十三号 昭和二十七年九月十日)

何故なれば薬は全部毒であるからで、毒を服んで身体が健康 になるなどは、石が流れて木の葉が沈むである。つまり薬という毒で、一時病気を圧 え苦痛を緩和させるだけの事で、其結果薬毒が病気を作り、年中鼬鼠(イタチ)ゴッコを し乍ら、人間は段々弱まって了うのである。
栄光

九分九厘と一厘 (栄光 百三十八号 昭和二十七年一月九日)

戦争の原因は人間に内在する悪そのものであって、此悪なるものの本質は何であるかというと、曩にもかいた如く動物霊の意欲の表われであって、其行為が動物的であるに見ても明かである
第十篇「神示の健康法」

日本人と精神病 (自観叢書十 昭和二十五年四月二十日)

右の如く法規の力が前頭内に光ってゐるとすればそれを識ってゐる憑霊は、そこを占有することが出来ないが、一旦霊が稀薄になった場合邪霊は得たりかしこしと憑依する。稀薄といっても厚薄の差別があり、その差別通りに活動する。例えば、前頭部の霊の充実が十とすれば、憑霊する事は全然出来ない。九となれば一だけ憑依出来る
世界救世教奇跡集

この奇蹟をどう見る (世界救世教奇跡集 昭和二十八年九月十日)御蔭話「炭鉱にての奇蹟の数々」

これは炭坑内における危機一髪という一瞬間に、被害を免れたという幾つもの奇蹟であるから、その損害を免れた利益は頗る大きなものであろう。従って全国の炭坑悉くに、一個所につき何人かの本教信者が居るとしたら、恐らく現在蒙っている被害高は何分の一に減るであろうことは断言される
第十篇「神示の健康法」

坊ちゃんを作る健康法 (自観叢書十 昭和二十五年四月二十日)

現代医学の健康法として言う処は人間は無理をしてはいけない、睡眠不足もいけない、消化の良い物を食え、物をよく咀嚼せよ、寒い思いをするな、腹巻をしないと腹が冷える、外出から帰った時は必ず含嗽をしろ−等々である。処が、仮に右の通りの健康法を実行するとすれば果して健康になり得るであらうかというと私は反対である事を明言する、それは必ず虚弱者になる
第十篇「神示の健康法」

健康による天国化 (自観叢書十 昭和二十五年四月二十日)

此健康問題が立派に解決されない限り、他の凡ゆる条件が全部具現しても何等の意味をなさないからである。然るに私によって完成された処の神霊療法は、人間の凡ゆる病患を除去し、完全健康体たる事が可能であるのである。
第十篇「神示の健康法」

医学に望む(自観叢書十 昭和二十五年四月二十日)

聞く所によれば凡ゆる病気のうち、最も一般的で軽病とされる風邪の原因すら医学に於ては今以て不明とされている。故に吾々が要望する処のものはせめて医師が家族のものを自己が診断せざるを得ない様になり風邪の原因がはっきりするようになるだけでもいいから、其程度にまで進歩されん事を期待してやまないものである。
第十篇「神示の健康法」

神霊医学は民主的医学なり (自観叢書十 昭和二十五年四月二十日)

わが神霊療法は金持も貧乏人も何等差別がない。何となれば、物質は一切用いないからで、たゞ眼に見えざる霊の作用で、人体から放射する光波を以てする体当りである。それで医療の何倍かの効果を奏するのであるから、全く理想的である。
世界救世教奇跡集

霊と体 (世界救世教奇跡集 昭和二十八年九月十日)

一切万有は霊主体従が原則であるとしたら、本著にある幾多の奇蹟もこの理が分れば敢えて不思議はないのである。例えば危機に際し間髪を容れず難を免れたり、高所から墜ちても疵(キズ)一つ受けず助かったり、博士や大病院から見放された重難症患者でも、難なく治るという事実である。
世界救世教奇跡集

霊主体従 (世界救世教奇跡集 昭和二十八年九月十日)

現代科学といえば勿論唯物科学であり、唯物科学とは目に見え、手に触る る形あるものを対象として研究し進歩したものであるから、凡ゆる物象の表面だけが或程度判ったに過ぎないのであって、その内面に存在する重要な或物に気附かなかったのである。この或物とは何かというと、これこそ無に等しいもので、名附けて霊という。この霊なるものこそ凡ゆる物象の主体であって、この事の認識が出来ない限り、何程科学が進歩したといっても、それは半分の進歩であり、跛行的でしかない
世界救世教奇跡集

奇蹟とは何ぞや (世界救世教奇跡集 昭和二十八年九月十日)

我救世教に至っては、奇蹟の多い事は恐らく世界に例があるまい。全く奇蹟の宗教といってよかろう。そうして社会一般の通念からいえば、信仰心が強ければ強い程、奇蹟的現当利益に富むとされているが、その点本教は大いに異っており、寧ろ反対である。というのは最初から神を否定し、何程疑っても必ず奇蹟が起るのである。
世界救世教奇跡集

「世界救世教奇蹟集」 序文 (世界救世教奇跡集 昭和二十八年九月十日)

この著は科学に対する原子爆弾であり、現代人に対する啓蒙書であり、天国の福音でもある。今その理論を説くと共に、裏附けとして我救世教に於ける数多くの奇蹟中から、百二十例を選んで載せてあり、これを読むとしたら余りの超現実的なものばかりで、直ちに信ずる事は出来ないであろう。何となれば古往今来これ程素晴しい奇蹟が多数ある例はなかったからである。