[東方の光 下巻より] 海外布教(2)第一の布石

東京・羽田からハワイへ出発する樋口喜代子、安食晴彦

 (2)第一の布石

 教祖は昭和二五年(1950年)ごろから、「アメリカ布教は樋口(ひぐち)さんに。」と語っていた。東京女子大学英語専攻部を出た樋口喜代子(きよこ)は、かつて日本女子大の講師を勤めるなど、長い間英語教育に携わったが、昭和十九年(1944年)、神縁に導かれて入信し、さらに専従を決意して布教一筋に歩んだ。当時は、「日光(にっこう)協会」の会長を勤め、国内の布教に情熱を傾けていた。樋口は初め、教祖の言葉を聞いても信じられず、夢のような気がするばかりあった。

 ところがそれから一年たったある日、ハワイから世界救世教本部へ一通の手紙が舞い込み、樋口のもとへ回されてきた。

 それは、二十五年(1950年)に日本で入信した一婦人が、ハワイに帰ってから浄霊を取り次いだところ、次々と病が癒されて、入信を希望する人々が沢山生まれた、という手紙であった。樋口は早速教祖の許しを得て文通による指導を始め、お守りを空輸するという方法で二、三〇名の信者が生まれた。しかも、なお入信希望者がいるという。そこで手紙のやりとりでは、もはや間に合わなくなった。

 こうして、つい一年ほど前までは夢のように思われていたことが、次々に道が開かれて、現実のものとなった。樋口は、教祖の言葉がまごうかたなく実現するという、おごそかな事実に深い感銘を覚えたのである。しかも、ちょうどそのころ、ロサンゼルスからも救いの手を待ち望む手紙が寄せられ、救世のお守りは、合衆国本土にまで届けられることとなったのである。

 教祖の言葉によって樋口喜代子、安食晴彦(あじきはるひこ)の両教師のハワイ派遣が本決まりとなった。しかし当時はまだアメリカへの入国制限が厳しく、またアメリカ政府は外国の新宗教に対して規制する方針であったから、なかなか入国許可が得られなかった。一刻も早く現地を訪れ、悩む人人に神の光を取り次ぎたいと、樋口の思いは募るばかりであった。ある日この間(かん)の事情を報告すると、教祖はこともなげに、

 「それはやはり霊的に何かが邪魔しているんですよ、初めて西洋の霊界に本当の光が出ることになる大変化なので、邪神界の反対は大変だからね。しかし神様の方ではもう決まっているんだから心配することはない。きっと年が明けて立春を過ぎないと駄目なんだろう。立春というのは大きな変わり目だからね。」

と淡々とした調子で言うのであった。樋口はこれを聞いて心中、春風に吹かれ、浄められる思いがしたのである。

 樋口は、この渡航の準備中、高熱を発し非常に身体が辛かったので、しばしば教祖の浄霊を受けたが、その都度、アメリカ布教に対する心構えを教示されたのである
 ある時教祖は、

 「まずハワイへ、それからアメリカへ行きなさい。」

と言った。樋口は、
 「はい。」

と答えたものの、心中は不安であった。アメリカという国の巨大さと、それに比べて、みずからの無力さが重苦しくのしかかり、当時はまだ敗戦国民が、単にアメリカに渡るということさえ、種々おもんぱかられた時代であり、ましてや、使命の重大さを考えれば考えるほど、はたして自分になし得るのだろうかという心配が、頭をもたげるのであった。そうした樋口の心を見抜いたかのように教祖は、

 「神様の方ではね、あんたがアメリカに行くようにずっと昔から決めておられた。そのことが実現する時が来ただけのことですよ。だから、神様の方でちゃんと段取りをつけられるから、あんたはあまり心配しなくていいんです。」

と励ましたのである。

 樋口と同行した安食晴彦も、また出発の直前、教祖に浄霊を受けに行った。教祖は膝と膝が接するほど安食をそばに近寄せると、頭頂部の浄霊をしながら、

 「全世界の人に、薬禍、薬害ということを知らせれば、世界が救われるのですよ。人類を救うということは、ただこの一点にあるのですよ。」

と言った。教祖の論文の中では、しばしばこの種の言葉を読んでいた安食であるが、直接、教祖の声として聞いたこの一言は心の奥底に強烈に焼きついたのであった。

(3) 愛に包まれて

 アメリカへの渡航は教祖の言葉通り、昭和二八年(1953年)の二月にはいってにわかに事が進み、二月十一日、樋口らはハワイへ向けて出発したのである。

 ハワイへ渡った後、教線の伸びは目覚ましく、同年八月、ハワイ州政府から法人組織の認可を得、翌二十九年(1954年)の二月にはホノルル市内に1000人収容の殿堂が完成した。ハワイに渡って一年足らずの間に、すでに1500名の信者を擁し、落成式の当日には、700名近い参列者があったと、当時の『栄光』紙は報じている。樋口はハワイへ渡った直後から、教線発展の様子を手紙に書き送ってきた。それは「ハワイ通信」と題して、『栄光』紙上に発表され、日本国内の信者に多大の感動を与えたのである。

 樋口がハワイへ渡ったちょうど同じころ、画家の嵐知重(あらしともしげ)がロサンゼルス市長の招聘でアメリカ本土へ渡った。嵐は昭和十九年(1944年)に子供の浄化を救われ、以来熱心な信仰を続けており、代理教師という肩書でロサンゼルスを中心に布教し、半年間に20名ほどの信者を導いた。そこでハワイにいた樋口は、何度かロサンゼルスに渡って長期の滞在をし、嵐と協力して布教を続けたのである。そして二十九年(1954年)五月にはカリフォルニア州政府に対し、法人設立の申請を出し、翌六月、教会用の家屋を購入、十月に法人の許可が降りると、その一年後の昭和三十年(1955年)十一月、樋口はロサンゼルス教会の主任教師として着任した。こうして、今日の「ロサンゼルス教会」の礎が、着実に一歩一歩築かれていったのである。

 しかしながら、海外布教の第一歩として着手されたアメリカ本土、ハワイの布教の歩みはけっして平坦な道ばかりではなかった。そして多くの難題、難問に直面するたびに、樋口が求め縋ったのは教祖の指導であった。

 まだホノルルの教会が入手される以前のことである。日々の奇蹟が起こり、信者がふえるにつれて、献金も増加するようになった。ちょうど、熱海・瑞雲郷の造営が大規模に進められていた時である。樋口は、まず聖地の建設を第一にすることが世界救済の根本になると考え、ハワイの信者の献金をその造営に役立てたいと願った。しかし地元の信者は、ハワイ教会の建設を強く望んでいる。そこで樋口はどちらが本当か、間に立って大変に悩んだ。しかしそれに対する教祖の指導はつぎのようなものであった。

 「人にはそれぞれ使命がある。あなたはお金のご用は忘れなさい。あなたが心配しないでも世界中の富は神様のものだということを忘れないように。本部には必要な時にはいくらでも誠の人を通じて神様が寄せられる。時機が来て本当のことがわかってきたら大変なものだ。それよりも早く世界を救わなければならないのだから、そちらの人達が心配していることの逆をやって安心させてあげなさい。早く土地を借り、家を買って、我々の目的は人を救うことであって、金集めではないこと、献金はそちらで使うということの実地を見せてあげなさい。」

 このように神の真意と人々の願いとをかみ分け、愛情に満ちあふれた教祖の言葉を聞いて、樋口は今さらながらに教祖の大愛を思い感涙にむせんだのであった。

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