三月六日
今度、今まで私の書いたものの中から選(エラ)んで「救世教の聖書」みたいなものを編集するについて、序文を書いてもらいたいというので書いてみましたから読ませます。
御論文〔⇒救世教とは何ぞや 序文〕【註 栄光二五三号】
よく“救世教にはまだ教義がない”とか言われるのですが、これは、つまり世間一般の宗教として見るから、その教義というものを考えるのです。本当言うと宗教ではないのだから、教義などは要らないわけです。大体「教義」という言葉がピッタリしてないのです。教えではないのですから……。教義というものは昔から、殆んどの宗教にはありますから、随分立派な、よく出来た教義が沢山あります。つまり教義というのは、教えの理窟ですから、教えでは人間は救えないです。
今度の静岡民報に私の事が続き物になって出始めましたが、あの中にちょっとうまい事があります。“自分は若い時分にキリスト教の聖書研究会で奇蹟について言い争い、どうしても奇蹟が信じられないというので、バイブルから奇蹟の所を全部消した。そうして読んでみると、これは宗教書ではなく道徳書の方になった。それが分ってみると、さっぱり興味がなくなって止めてしまった”という事がありましたが、それはうまい事だと思います。つまり宗教というものは教えだけでは、やはり一つの道徳になるのです。そういった道徳以外に、つまり理窟のつかない不思議なものがあるので、それが宗教の根本ですから、その不思議、奇蹟が多いほど宗教としての価値があるわけです。そうなると、宗教としての価値と言うよりか、むしろ宗教ではなくなってしまうわけです。ですから教えは要らないわけです。
ここのところがなかなか難かしいですが、丁度犯罪者が出ないように法律を作るという事です。法律を作るという事は、“こういう悪い事をすれば、こういう罪になる、こういう刑罰を与えられる”という事で僅かに秩序(チツジヨ)を維持(イジ)してゆくというわけです。それから宗教の教えというものは“人間はこうすべきものではない”“こうしなければならない”と、箇条書になっているのが随分あります。大体その元祖はモーゼの十戒です。“何すべし”とか“何すべからず”とか、という事では、やっぱり、法律のような肉体的刑罰はないが、つまり霊的刑罰、そういうものがあるわけです。聖書にある“他の女を、どうしようとか思うという事は、既に姦淫(カンイン)の罪を犯している”というような、一つの霊的刑罰です。人間は刑罰によって良い事をする、悪い事をしないというのでは本当のものではないのです。丁度酒を飲むと毒だから飲まないようにしなければいけないと、一生懸命我慢するというのと同じです。ですから、宗教とすればまだ低い所です。高い所ではないのです。そこで高い宗教というものは、“そうすべからず”とか、そういった刑罰がなく、ただそういう事が嫌(イヤ)なのです。酒なら酒を飲みたくなくなるのです。それで、そういう変な事はする趣味がなくなってしまうのです。悪い事やずるい事をするのは、やっぱり趣味なのです。汚職事件などをする人は、ああいう事が好きなのです。気持の良い、並の手段で金を儲けるというのよりか、暗い所でやるそれが面白いのです。という事は、つまりその人の魂が本当でない、低いからです。魂が低くなければそういう事はしないのです。つまり動物的根性が多分にあるから、どうも明かるい、人間的感情がごく少ないわけです。やっぱり刑罰という檻がなくては危ないのです。檻があっても、それを破っているのですから……。ですから霊的に言うとずっと低いのです。本当に言うと、世の中で言う政治家とか、肩で風を切っている偉い人は、霊的に言うと実に低いのです。下等なわけです。そういうようなわけで、法律も戒律も何もなくても悪い事をしない、悪い事に趣味が起こらない、それで良い事をするのが面白いという魂になると、それが本当の魂です。ですからウッチャラかしておいても悪い事をしないというので、人が見ているから悪い事をしないというのではいけないわけです。そういう人間を作るのが救世教の本筋なのです。しかし無論いきなりそういう立派な人間になれるわけがないから、教義というものも必要です。しかし根本はもっと上の方にあるのだからして、そこで宗教ではないと言うわけです。今までこういう上等なものは出なかったのです。ところがそういった上等なものが出たのです。だからそういった上等な事を分らせるには、なかなか簡単にはゆかないです。“そういう馬鹿な事があるものか”というわけです。つまり浄霊をすると疑ぐっても治るというわけです。ところが先は理窟で来ますが、理窟の方が下で、こっちは理窟より上です。それで、研究すればよいのですが、今までの理窟で分らなければ“駄目だ”と、今のインテリなどは見るのです。実に難かしいのですが、しかし本当に分れば、これは又理窟よりかもっと良いものだから、これは離せないという事になります。