日本人種の霊的考察(上)『地上天国』22号、昭和26(1951)年3月25日発行


 この問題を説くに当って、断っておきたい事は、以下の所説は史実にもない事柄ばかりであるから、そのつもりで読まれたいのである。しかし日本人なら、是非知っておかねばならない事なので、ここにかいたのである。それならなぜ今までにかかなかったかというと、何しろ事柄が事柄なので、終戦前までは誤解され易い点が多々あるのでかかなかったのである。
 そうしてまず、日本の神代史から検討してみる時、衆知のごとく、ほとんど神話的御伽噺(おとぎばなし)的で、常識では到底考えられない事が多いのである。人も知るごとく、天照大御神が最高最貴の神とされており、しかも日本天皇の御祖先ともされており、日本における神宮中の、最高の神位として伊勢神宮に鎮祭されているにみても、いかに崇敬されていたかが肯(うけが)われるのである。
 これについて色々の説があるが、その中の比較的真を措(お)けると思う説は、大神は最古の時代から丹波の国元伊勢(もといせ)というところに、鎮座在(ましま)しておられたところ、今から千百年以前、現在の伊勢の山田に遷宮されたというのであるが、その時大神の神霊を御輿に遷し参らせ、数人の者が担いで元伊勢の外れに流れている、五十鈴(いすず)川という川を渡らんとした時、急に御輿が重くなり、どうしても渡る事が出来ず、引返して元通り鎮祭される事になったというのである。ところが、不思議にもその時から同神社の後を流れている谷川の、数丈上にあった三間四方くらいの角形の大石が、突如落下し、谷川の岸の辺に行儀よく座ってしまった、これを御座石と名付けて今なおそのままになっているのを、私は先年元伊勢参拝の折見たのである。またその直ぐ脇に相当大きな洞穴があるが、これは岩戸という名だそうで、これも面白いと思った。
 次に神代史によれば、初め伊弉諾(いざなぎ)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)の御夫婦の神が、天照大神と申す女神を生み給い、次いで神素盞嗚尊(かむすさのをのみこと)という男神を生み給うたとなっている。そうして天照大神に日本の統治を命ぜられ、素盞嗚尊に朝鮮の統治を命ぜられ給った事になっている。こういう訳で天照大神は女神であるにかかわらず、天皇の御祖先となっておるばかりか、蛭子命(ひるこのみこと)という男児まで生み給うたとの史実もあるが、これが本当とすれば、どうしても夫神(つまがみ)がなければならないはずである。しかし今日までそれに疑いを起した者もないし、この謎を解こうとする者ももちろんなかった。もっとも終戦以前までは、そのような批判をするなどは不敬に当るかも知れないので、誰も触れるのを恐れたためでもあろうが、今日となっては、そういう懸念もなくなったから、私はここに筆を執ったのである。
 まず古代史によれば、天孫民族は天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を擁立して、九州の一角高千穂の峰に天降(あも)られたという事になっていて、その御孫〔曾孫〕神武天皇、またの御名神倭磐余彦尊(かむやまといはれひこのみこと)の代になり、尊の御歳四十五歳の時、東夷征伐の軍を起したのである。これは史上明らかなごとく、最初まず大和に軍を進めて、干戈(かんか)を交えたが皇軍利あらず、しかも皇兄五瀬命(いつせのみこと)は討死された等で、天皇は敗戦の原因を、東方すなわち日に向かったためとして策戦を変え、大きく迂回して、今度は日を背にし、西に向かって進撃する事となったところ、果して勝つには勝ったが、敵を降伏させるまでには至らなかった。というのは当時敵の本拠は、大和より程遠い出雲国であったからでもある。もちろんそこは出雲朝と言って、当時の日本全土を統治していた中心で、ちょうど今日の東京と同様、中央政府の所在地であり主権は大国主之命が握られていた。
 そのような訳で天皇は、勧降使を二人まで遣(つかわ)したが、第一の使者は目的を達しなかったので、第二の使者を遣したが、これもまた失敗に終った。二度までも失敗したというのは、どういう訳かというと、敵の採った手段は、酒と女で骨抜きにしてしまったからである。これを知った天皇は大いに怒り、今度は必勝を期して、最も強行手段を採った。すなわち陸軍の総大将としては建甕槌命(たけみかづちのみこと)、海軍の総大将としては経津主命(ふつぬしのみこと)を選び、陸と海から挟撃しようとしたので流石(さすが)の大国主命も大いに驚き、戦わずして降伏のやむなきに至ったのである。その結果国土奉還という事になり、日本の統治権は、ここに全く出雲族から天孫民族の手に移ったのである。これは余談だが、二代の綏靖(すいぜい)天皇の皇后として、大国主命の息女を娶(めと)わしたという事になっているが、察するに大国主命は将来を慮(おもんばか)り、両者の融和手段として執った結婚政略であった事は言うまでもない。
 今一つの面白い事は、右の建甕槌命は、大きな軍功により、死後鄭重(ていちょう)に祭られたのが、彼の茨城県にある鹿島神社であって、日本の神社としては最古のものである。ところが後代に及んで、武人が戦争に赴く場合、命を尊信の余り、必ずこの神社に詣でてから出立したので鹿島立ちと言う言葉が、出来たという事である。ここで注目すべきは、この時の統治権変革が因をなし、後に到って両者の天下争奪戦が起った。これが戦国時代の始まりであるが、この事は霊界の動きであるから、人間には判らない。人間はただ表面に現われた経緯を歴史としてかいたに過ぎないもので、それが先般の終戦時まで続いたのである。従って私は霊的事実を基礎とし、現界の事象を証拠として照合せつつ筆を進めてゆくのであるから、まず正鵠を得ていると言ってよかろう。
 ここで最初に戻るが、前述のごとく天孫人種が天から天降って高千穂の峰にしばらく屯(たむ)ろしたという事は、余りに馬鹿馬鹿しい話で、荒唐無稽もはなはだしいと言わねばならない。しかも神武天皇の父である鵜草葺不合尊(うがやふきあへずのみこと)の、そのまた父である天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が、伝説のごとく天照大神の勅命によって、この国を治めよとの事であるとしたら、これも可笑(おか)しな話になる。というのはもしそうだとすれば、それまでの統治権は天照大神が掌握されていた事になる。すれば天照大神はそれ以前の主権者から受継いだ訳になるが、それ以前の歴史は漠として判らない。今一つは瓊瓊杵尊という御方の出生地も経歴も、またなぜ主権を譲られたかという理由も、全然不明になっている。もっとも天降ったとしたら何をか言わんやであるが、そればかりではない。最初にかいたごとく神武天皇以前の日本の統治権を握っていたのは、大国主命であった事は確実であるから、天照大神が瓊瓊杵尊に主権を与えたという事は理屈に合わない話だ。もしそうだとすれば神武天皇は既に統治権を譲り受けているはずであるから、出雲朝に対し国土奉還など要求する必要はない事になる。でなければいずれの日か余程以前に、素盞嗚尊に統治権を委任されたかまたは強奪されたかのいずれかで、その点も全然不明である。それについて最も確実性のあるのは出雲朝の歴史であるから、それをかいてみよう。
 私は先年出雲へ参拝の折、同神社の裏手の海岸に日の御崎というところがある。神官の説明によればここから毎年十月初め神様は故郷にお帰りになり、一カ月を経てお戻りになるとの事である。これでみれば出雲の神様は日本生え抜きの神様ではなく、外国から移住された神様に違いない。のであろう。そうして大国主命の父親は素盞嗚尊になっている。古事記によれば素盞嗚尊は、朝鮮の曾尸茂梨(そしもり)山へ天降られた事になっているから、朝鮮に生誕された神様である。そうかと思うと伝説にもある通り、出雲国簸(ひ)の川上において、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し櫛稲田姫(くしなだひめ)の生命を救うと共に妻神として迎え、夫婦生活をなさるべく、今日の出雲神社の位置に、須賀宮という新居を作られた尊は、新築の家へ初めて入居された時、「あなスガスガし」と仰せられたので、須賀宮と名付けられたという説もある。そうして余程琴瑟相和(きんしつあいわ)したと見えて、その気持を表わすべく詠まれたのが、彼の“八雲立つ出雲八重垣つまごめに、八重垣作るその八重垣を”という歌で、これが三十一文字(みそひともじ)の嚆矢(こうし)という事になっている。としたら和歌の先祖は素盞嗚尊となる。
 また、単に素盞嗚尊と言っても、三つの神名がある。神(かむ)素盞嗚尊、速(はや)素盞嗚尊、竹速(たけはや)素盞嗚尊であるが、私の考察によれば右の順序のごとく、三代続いて次に生れたのが大国主命であろう。ここに注目すべき事は、出雲神社では古くから今日に至るまで、不消(きえず)の火と言って、灯明を点(つ)け、その灯を移しては取変えて、今日まで決して絶やさないそうである。それを二千年以上続けて来たという事は、何か余程の意味がなくてはならない訳で、考えようによっては、再び復権する日まで血統を絶やすなどの意味かも知れないと想うのである。
 これも余談であるが、大国主命に二子があった。長男は事代主命(ことしろぬしのみこと)、次男は建御名方命(たけみなかたのみこと)である。ところが長男の命は至極温順で、降伏に対しても従順に承服したが、次男の命はどうしても承服せず、敵に反抗したため、追われ追われて、ついに信州諏訪湖の付近にまで逃げ延び、湖に入水(じゅすい)して、あえない最後を遂げたという事で、それを祭ったのが、今日の諏訪神社である。
 ここで、話はまた最初に戻るが、右の数々の史実は、神示によればこうである。初め神素盞嗚尊が日本へ渡来した時、最初に上陸した地点が出雲国であった。ところが当時日本の統治権を握っていたのが伊都能売(いづのめ)神皇で、この神皇は余程古代からの、日本の真の主権者であったらしい。まず、大和民族の宗家といってもよかろう。ところが大和民族の性格としては、闘争を極端に嫌い平和愛好者なるがため、素盞嗚尊が武力抗争の態度に出たので、無抵抗主義のため生命の危険を慮(おもんばか)り、海を渡って某国に逃げのびたという事である。それで後に残ったのが御世継である天照天皇とその皇后であったが天皇は、ある事情によって崩御されたので、皇后はその大権を継承される事になったが、事態の切迫はやむなく素盞嗚尊の要求に応じない訳にはゆかなくなり、一種の講和条約を締結したのである。その条件というのは、近江琵琶潮を基点として、西は素盞嗚尊が領有し、東は天照皇后が領有するという事になった。これが古事記にある天ノ八洲(あまのやす)河原の誓約(うけい)である。今日琵琶潮の東岸に野洲という村があるが、そこであろうと思う。なぜそのような講和条件を作ったかというと、素盞嗚尊が一旦(いったん)国土平定をしておいて、次の段階に進もうとする予備的前提条件であって、結局日本全土の覇権を握るのが狙いであった。というのは当時といえども一挙にそうするとすれば、国民の声がうるさい。今でいう、輿論が承知しなかったからであろう。そんな訳で、時期を待っていた素盞嗚尊は、機を得てついに萌芽(ほうが)を表わすに至った。すなわち天照皇后に対して、日本の東方の主権をも渡すべく要求すると共に、もし応諾せざれば皇后の生命をも脅かすので、ここに皇后は決意され、潔ぎよく全権を放棄し、僅かの従巨と共に身をもって脱れ、逃避の旅に上ったのである。これを知った尊は、なおも後顧(こうこ)の憂いを断つべく、追及が激しいので、逃れ逃れてついに信濃国の、今の皆神山(みなかみやま)に居を定められたのであるが、ここでもいまだ安心が出来ず、山深く分け入り、第二の居を定められたのが彼の戸隠山である。昔から岩戸開きの時、扉が飛んでこの山に落ちたという説があるが、それを暗示したものであろう。
 また話は別になるが、天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が、日本へ渡来したのは、素盞嗚尊の渡来より余程後であったらしい。そうして瓊瓊杵尊は支那周代中期の英雄であって、この尊の祖先は有名な支那の天照大神ともいうべき、盤古神王(ばんこしんのう)という日の系統の神様で、一名盤古氏とも言われている神人である。そこで尊は当時の日本を観たところ、主権はすでに素盞嗚尊の手に握られていたので、機を待つ事にしたが、その機が来ない内に崩御し、ついに三代目の偉人、神倭磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)によって、目的が達せられたのである。

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