【御 教 え】
(御論文「大宅壮一と言う人」のあとの御教え)【注 栄光第129号】
つまり、邪神側はあの手この手でやっている。邪神のうちでも色んな、専門々々がある。知識階級があり、学術専門とか――知能犯的なものですね。そう言う専門が、つまり共産主義を作ったマルクスと言うのであり、そう言う邪神が憑って書かせた。だから一時は理屈がありそうだが、結局は駄目です。それから、戦争専門の奴がある。ヒツトラーとか――色々な戦争で大いに偉くなって、思いのままにやろうと言う。そう言った親玉もある。だから、こう言う邪神のやり口をみると、一番分かるのは、残虐性がある。愛がない。自分の出世の為なら人が苦しんでも、命を取っても平気なんです。邪神でないのは、そこに慈悲とか愛がありますから、そこですぐ分かる。
キリストみたいに、反って偉い人がひどい目に会っている。と言うのは、あの時代は邪神の方が強かった。邪神に対抗する力がなかった。と言う事は、以前に大きな罪を犯した。その罪が未だ体についていた為に、対抗する迄の力が出なかった。相応の理ですからね。大きな邪神は大きな力がついている。私を苦しめるのは、邪神の大きな親玉です。処が時期も違っているし、霊界もよほど明るくなっている。霊界の中にまた霊界があり、その奥の――神道で言う幽玄界(ゆうげんかい)ですが、そこは殆んど昼間になっている。その次の霊界が、未だ暗が残っている。今は邪神のどんな強い奴でも私には敵(かな)わない。邪神のうちで一番力のあるのは赤龍、黒龍ですね。今は金龍が出てますからね。金龍にはどんな奴でも敵わない。金龍と言うと、私の『奇跡物語』にあるが、三千年間近江の琵琶湖に潜んでいたのが、昭和四年に琵琶湖から出たが、それが、今活動してます。だから邪神のどんなのでも敵わない。しかし彼も、霊界が本当に明るくなった訳ではないから――曇りがあるから、それだけ活動できない訳ですね。そこで去年の事件もそう言う意味だった。処が去年の事件の意味と言うのは、その奥に未だあるんです。と言うのは、教団を乗っ取ろうとした大変な邪神があった。その邪神をやっつける方法として、あの事件を起した。だから、やっぱり去年のあの事件は邪神をやる方法として、手を緩めてやらせるだけやらせた。だから、今読んだ通り、邪神にもまんざら悪い事ばかりはない、良い事もあって、今は感謝しても良い位と言うのは、その事なんです。そう言う訳ですから、神様のおやりになる事は、ちょっと見ただけでは分からない事がよくある。邪神は何億といるんです。それで階級が色々ある。神界――神様の方と大体同じですね。そこで、信者一人々々を引き落そうとして狙っている。ですから信者の人でも、ちょっと考え違いしたり、迷ったり。良いと思って間違ったりする。大本教のお筆先に「今は悪神がそこら中入りており、ちょっとの隙もないぞよ。何時なんどき悪神にままにされるか分からないから、気をつけるが上にも気をつけたが良いぞよ」とある。皆んな、信仰にある者は、抜身の中にある様な気持ちで、ちょっとの油断もできないと言う意味で、中々旨い事を書いている。処が神様にちゃんと手を合わせていると、御守護があり、憑けないで退(の)いてしまう。と言う訳だから、そこで旨くいくんです。そう言う訳なんです。それですから、色んな宗教――信仰もあるけれども、殆んど邪神がやっている。だから神、仏を拝んで居ながら随分間違った事をしますが、つまり、その宗教の拝む的が邪神であったり、邪神でなくても、その神様が邪神に自由にされるんです。「お前、俺の言う事を聞かないとやっつけるぞ」と言う。神様でも邪神に敵わないのは沢山あります。江の島の弁天様に行った時、お宮の中に、本尊は狐がいるんです。弁天様は居やしない。それから、武蔵の国魂神社と言うのがあります。官幣中社かです。立派な神社ですが、それもやっぱり邪神に占領されていた。そんな様な訳で、神社を拝む場合に、皆んな神様と思って有難く拝むと、どうしてどうしてとんでもない。そう言うのが沢山あります。そうでなければ、世の中がこんなに悪くなっている訳がない。神様に力がなく、邪神に負けているから、こんなに禍や戦争や病気がある。と言うのは、こう言う訳なんです。