それは、名前など一切言へませんけれども或宗教の非常な、熱心な信者がありました。
その信者が、神様の事に就て、結構な御用をしたんでありますが、その人は、家賃を何年も払はずにゐるんであります。ツマリ、払ふべきを払はないで御用をしたのであります。で、之は、どういふ風に解釈するかと言ひますと、払ふべき物を払はぬといふ事は、例へば、物を買って品物を持って来ても、金を払はぬといふのと違ひはありません。家を借りる際には、最初、家賃を払ふ、家を貸すといふので借りたんで、例へば品物にしても、之は一円だから一円払へば品物を上げるといふのと同じであります。
銭を払はないで品物を持ってくるとなると怪しからん事で犯罪になりますが、家を借りて家賃を払はないのも、結局同じ事であります。どうしても、之は盗みであります。本当から言へば、家賃なんかは一日も、遅らせるべきものではないのでありまして、一日遅れれば一日、それ丈の盗みの罪が構成される事になります。そんな金で、御用をしても真の神様なら、そんな不浄の金は御使ひになる筈がないのであります。でありますから地代とか家賃とか約束した仕払は、絶対に遅らせるべきものではないのであります。そういふ払ふべきものを払はねば、矢張り入るべき金も入るものではありません。
金は昔から、湯水のやうだとか、湧くとか言はれてゐますが、全く水のやうなもので、払ふべきものを払ふとどしどし流れて来るものであります。金を払はねば入るべき物も滞って了ふのであります。霊的に言ふと、そうであります。霊的が体的になるのでありますから、金に困る人とか、豊でない人はどこかにそういふ間違いがあるんであります。そういふ間違った事がなければ、困るべきものではないので、それが天地の原則であります。そういふ無理をし人に迷惑をかけて神様の御用をしたって、決して善い事をしたのではないのであります。よくお寺や、伽藍が焼けますが、永久に残る寺は滅多にありません。日本では、奈良の法隆寺位なものでありませう。有名な堂宇はよく焼けます。それは、そういふ不浄な金が多いので、建てたが故であります。
面白い話がありますが、無銭飲食をした者があって、警官が捉へて調べてみると懐に百円持ってゐる。そんなに金を持ってゐて、何故、そんな事をしたかと訊くと、その男は阿弥陀様の信者で、之は、阿弥陀様へ百円キッチリ上げるときめてあるんだから、一銭も手を付けられぬ、外には銭がないから無銭飲食をしたんだと、平気で言ったそうであります。こんなのが迷信の最も恐ろしい処であります。それに似た様な事がよくあるんであります。之は、大変な間違ひでありますが、観音信仰はこういう間違ひはない、誤魔化しのない、つまり総てが真実であります。観音様を信仰し、観音行をすれば本当の人間になるから、人から指一本さされる事がない、争ひや苦情が起らないのであります。争ひや苦情が無くなれば裁判所などの必要がなくなって来る。間違った事をしながら、理屈を付けて誤魔化さうとするから苦情や争ひが起り裁判所の必要があります。世の中の人が皆、間違はないやうになった時が大光明世界であります。