大光明世界の実相(五) 万教帰一 (光明世界五号 昭和十一年一月二十五日)

今迄種々(イロイロ)な宗教がありますけれど、それ等は大変間違ひがあるんで、それは神様が、世界経綸の上に於て、本当の事を発表する事が出来なかったんであります。その為に、いくら一生懸命になっても、本当の事が判らない、判らないから種々(シュジュ)と迷ひが起り、迷ひが起るから、人間社会が良くならなかったんであります。要するに人類は、今迄真実の事を知らされなかった。宗教の教義や聖典などは、仮りであって、謂はば、仮定的の教なり説だったんであります。それで今迄、お釈迦様以来の聖者、又は偉人等が種々と説かれたりしても、駄目であった。

実は今迄の聖者や偉人と言はれた人達も死ぬ迄本当の事が判らずに、実は迷って死んだのが大部分であります。達磨の如きは、面壁九年も苦念して、悟りを開いたといふ話がありますが、其悟りを得たといふのは、どこ迄か判らないので一番奥を知ったのがお釈迦様でありますが、それでも経文の中には、本当の事は説いてなかったのであります。

今迄に、大小種々(シュジュ)の教が出(イデ)、今尚、新宗教が簇出(ソウシュツ)してゐると言ふ事は、要するに本当の教が出なかったからで、絶対的価値ある教が出たとすれば、種々な説や教が出る余地はない訳であります。例えば、病気の薬にしても、後から後から種々出来るといふのは、つまり前の薬が治らないからで、本当に治る薬が出れば、それで解決するから、最早、新薬は出る余地がない訳であります。又種痘であります。之が発明されて以来、決して新しいものが出来ないといふのは、あれ一つで解決して了ったからで、教へにしても、本当のものが出れば、その教一つになって了ふんで、八宗九宗凡ゆる教といふものは、存在の意義がなく、又新宗教の出現の余地もない訳であります。何宗とか何教とか今以て沢山あるのは、絶対のものが無かった證拠であります。そしてモ一ツ不思議な事には、今迄観音宗の本山とか、観音教とかいふものは無かった事であります。之が神様の深い経綸であって、それは、将来あらゆる宗教を綜合統一する準備だったんであります。

今度愈々観音の教へが、教へと言っては当らない。実は観音力が出る訳なんで、それで愈々、観音力に依て、万教帰一の時が来たんであります。従って、観音様の教へといふものは、教へとしては極簡単なんで、此前も太陽のお話をしましたが、太陽なんであります。

先刻も清水さんから言はれました、三五の月が隠れて、今度は、東方の光が出るといふ事は、夜の幕が閉じて、昼になるといふ事です。之を世界に準(ナゾラ) へてみますと、三五の月、即ち月とは西方文明になるんで、東方の光が出ると、西方文明が清算されるといふ事になるんであります。

今迄の教へは、先づ一番親玉としては仏教であります。その経文は、実に大したもので、八万四千もあるんでありますが、前から私は、あれ程沢山書かなくってもよさそうなものだ、あんなに沢山書いたから誰にも悟れなかったんで、悟れないから、多くの人が迷ったのであります。

真理といふものは、極めて簡単であるべきで、簡単でなくては、最大多数者は救はれる筈がないではありませんか。

それでは、何故沢山の文字を使はなければならなかったかと言ふと、之を光で例えてみませう。蝋燭で明るくするには沢山に燈(アカリ) を点けなければ明るくならない。一部屋を明るくするには、何十本も点けなければならない道理で、お経とか、バイブルとか、其他種々(シュジュ)の聖典が、沢山文字を使ってあるのはそういふ訳であります。又仏典や聖書の文章が頗る難解である。之も不思議であります。滑稽なのは難解だから有難味が有ると言ふのです。諸君、例へてみれば、芝居を観て筋が分らないから面白いと言ふ人がありませうか、若しあったら、其人は、精神異常者でありませう。それと同じであります。

太陽の出る迄は、薄暗くとも、蝋燭や電燈を沢山点けて我慢するより仕方がないのであります。所が観音会は至極簡単で、ただ太陽に向えばいいんであります。家(ウチ)を明るくするには、ただ戸を開(ア) ければよろしい。人間ならば心の窓を開ければいいんであります。昔は先刻岡庭さんの壺坂の沢市のお話がありましたが、今迄は、あれ程に一生懸命になって信仰しなければ、御利益は戴けなかった。今日の観音会の如く、僅か一円五十銭で頂いたお掛軸を拝めば、よく病が治るんでありますから、実に結構な時節になったんであります。

二三日前に、私の家へ、或婦人が来られ、二階へ上って来て言はれるには、「先生、下に懸ってゐるお観音様は、生きてをられますね。」と言はれ、「拝んでると、観音様の御姿から、光明が発すると同時に、最初眉毛を動かされ,次に眼をパチパチさせられ、次に口を開けて御笑ひになる。そうして、立ってるお観音様が歩き出されたんで吃驚しました。右の方へ歩いて行かれると、又元の所へ戻られる。昔の話に左甚五郎の彫ったものが生きて歩いたとか、飛んだとか言ひますが、全く嘘じゃないですね」と斯ういふ話をされたんであります。それで私は、それはそうだ、描いたお観音様が、それ位でなかったら、世界中を救ふといふ事は出来ないではありませんか、と言ったんであります。

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