小児麻痺(2)『アメリカを救う』昭和28年1月1日発行 ※御蔭話

医学で解決出来ぬランドリー氏病
      (極悪性小児麻痺)

       山口県   S.K (32)

 忘れもしない本年四月十二日の朝、前夜まで何の前触れも無く元気だった次女J(満二歳三カ月)が、中々起きませんので、常日頃からよくふざける次女の性質上又かと放って置きましたところ、本人が「母ちゃん起きられんわね」といいますので妻が行って見ますと、両足をぶらぶらしてもがいております。余りの変り方に「これは大変医者だ」と近所の掛りつけの医者に診せましたところ、首を斜げて「これは大変です、自分の手では責任が持てないから整形外科に」との事で慌てて整形外科医に見せましたところ、初めの医者と同じ事を言うので全く眼先が真暗になり、最後の頼みと、以前から商売上のお得意であった小児科専門のT医博に相談しましたところ、T医博は私を診察室の側の別室に招き、部厚い医学の書物を開いて深刻な溜息と共に「Sさん今の世の中にはまだまだ医者で解決出来ない病気が相当ありますが、貴方の子供さんはランドリー氏病という小児麻痺の中でも性質の悪い重症で、医学上原因も、確かな治療も無く、ほとんどが死の転機を見るという事になっております。しかし万一の奇蹟も無い訳でも無く、又新薬も次々と出ておりますから、この際私も全力を尽してやって見ます。だが生きるも死ぬるも一つの運と思って私に任せて戴きたい」との言葉に暗闇に突落されたような気になりながら、さりとて外に術もなくその言に従い入院して一家付添いで寝ずの看病をし、T医博も又あらゆる新薬を用いて治療しましたがその効なく、二日目には早くも両腕の自由を失い、三日目にはロから涎を出して呼吸は逼迫し、T医の態度もただ事ではありません。「医学でも解明出来ない不治の病に取憑かれた事がこの子の悲しい宿命なのだ」と腹の中では諦め妻にも覚悟の程を申し渡しました。とは言うものの病床に横たわる愛しいJの顔を見れば、何とか救ってやりたいと思案はしますが施しようも無く、茫然としておりますところへ同業者のYの奥さんが来て、「こうなれば神様にお縋りするより外はありません。私は石槌大権現さんを信仰しておりますが中々よく言うことが当ります。明日ぜひ行ってその先生に見て貰ったら」との親切な言葉と子供への愛情にひかれて翌日御参りしてその先生という人の話を聞きましたが、どうも要領を得ない話で腑に落ちぬところがあるのです。病院に帰って見れば子供はいよいよ脳を冒され始めたらしく、歯ぎしりをし虫の息で、もうこれまでかと思う程でした。この時私の頭にサッと閃いたものがあるのです。実は商売の取引先で小倉市のCという陶器問屋の番頭さんでAさんというお道の信者さんが前々から商用で来られる度に救世教の話をしておられました。私も師範学校時代、軍隊生活時代に「信仰と人間」という事には、かなりの関心を持ってはおりましたし、ある程度宗教の本等読んだり聞いたりしておりましたが、どうもAさんの言われる事が全幅的に賛成も出来ず余り取り上げておりませんでした。しかし危篤のJを眼前に見てあらゆるものから見放された私としては、「溺れる者は藁をも掴む」のたとえの通り、早速Aさんに連絡しましたところ、出張中との事に落胆しましたが、更に勇を鼓し吾身に鞭打ってAさんから話を聞いていたUさんを通じ、H支部のM先生に連絡を取って戴きましたところ、御親切にも早速その晩病院まで来て御浄霊をして戴きました。「必ず御守護が戴かれます。だがこのままでは薬毒が入りますからよくありません」との御言葉にちょっとためらいましたが、「どうせ医者の方から見放された病気だ、同じ死ぬなら家で死なした方がこの子も喜ぶだろう。御浄霊とかで治るか治らないか判らないが、まあ一つお縋りして見よう」と妻にも決心させ、近親の猛烈な反対(特に妻の妹の主人が外科医です)とT医の再三の熱心な引止めも押切り、翌十七日退院(発病六日目)十八日にB町の中教会にお参りさせて戴き、K先生のお話を聞いて御浄霊して戴き「大丈夫治りますよ」との判然とした御言葉に、実のところ六分の希望と四分の不信を抱きながら毎日M先生の御慈悲に溢れた御道の話と御浄霊を戴きました。四月二十日頃大浄化が起り、泡を吹いて呼吸困難となりましたが、慌てて驚く家中の者に「これは御浄霊による大浄化だ」と言い聞かせ、一心に明主様にお縋りしましたところ不思議にも治まり、その晩からはよく眠るようになり、二、三日後には食欲も少しずつ出て参りました。「もう大丈夫です」とのM先生の御言葉に力を得、四月二十八日妻Rに御守様を戴かせて貰い、更に私も五月八日に入信させて戴き、御浄霊を続けておりましたところ段々食欲も増し、涎は止り、泡も自然と治まって発病後一カ月目には両肩が、四十日目には両手が、五十日目からは両肢が少しずつ動き出し、二カ月目を過ぎた今日では、もう指先と足先に力が入ればいいという段階にまでならせて戴き、近所の人も皆吃驚しておられます。二、三日前にT医と妻Rが偶然に会う機会があったのですがT医もJの容態を見て大変驚いて「なぜこんなに治ったのでしょう。全く奇蹟ですね。お灸かマッサージでこんなに治ったのですか」「いいえ別に」「とにかく不思議ですね。これは医学上の研究問題です。学界に発表したいですから。時々来て見せるだけで良いですから」と話をされたそうです。又妻の妹の主人のY外科医も先に申し上げた通り退院大反対論者で、当時私と大議論をした程でしたが、最近ではこの厳然とした事実の前に「奇蹟だ、奇蹟だ」と不思議がり、「救世教の医学の本をとにかく一度見せて下さい」とまで申しておりますので、M先生に御願いして置きました。更に天理教の長年の信者であった母も、この事以後は御道の話を聞いて大変熱心になり、ただ今乳癌の御浄化を戴いておりますが、中教会支部にも御参りさせて戴き御浄霊も戴いておりますので、必ず御神徳戴けることと確信致しております。こうして暗雲低迷の私の家も、明主様の御光燦然として希望と喜びに満ち溢れ、商売の方も又今までの無理を是正して狭く貧しいながらも楽しい家として、安心立命の日々を送らせて戴いております。この上は一家共々に益々明主様の御教通り精進致しまして、地上天国建設の御神業の万分の一をも輔翼し奉り、もって御高徳に御報いする所存で御座います。

 明主様有難う御座いました。今後共益々御守護を賜わりますよう謹んで御願い申し上げます。
         (昭和二十七年七月十五日)

五年間動かぬ愛児の足十五分の浄霊で動く

     長崎県 T.S (48)


 今年八歳八カ月(小学三年生)の三男の子供が、二十二年八月より急に小児麻痺を患い、両脚歩行不能となり、立つ事も出来ない有様となりました。以後一年有余入院加療するもその効認められず、世の人々の噂の名医を探し求め、あるいは神仏に縋り、遠くは鹿児島方面に、近くは市内を歩き廻るもその効空しく徒(イタズラ)らに迷い、二十五年度より自然療養の外に道は無く、小学一年は毎日背負って通学し、二年生から松葉杖に縋り通学し今日にいたり、親心に子供の姿を見ては毎日暗涙に咽びました。ところが娘の嫁ぎ先のM様が「子宮癌で入院寸前に御浄霊にて御救い頂いたので貴方もぜひ」との御奨めにて、五月十八日初めて御参り致しました。その日はS支部が開かれた初めての御目出度い日で、半信半疑のまま御浄霊を御願い致しました。十五分位たった頃「オヤ、動くようですね。前に出してごらんなさい」との先生の言葉に、子供はスッと足を前に出しました。なんと驚くではありませんか。五年間動かなかった足でしたのに、あまりの不思議さに真実であろうかと我が眼を耳を疑った位でした。並いる参詣者も「マアー」とか「フーム」とか驚きの声を発しない者はありませんでした。御世話下さいましたM様は涙を流して喜ばれる有様でした。私よりも本人自身がどんなに嬉しかろうかと、嬉しさに胸も一杯になりました。その後四、五回位の御浄霊頃よりアグラも出来るようになり、現在では相当足にも力が入り、ひとりでに立とうとする傾向にあります。なお寝たままで足を上にあげ得なかったものがグッと上にあがるようになり、又立ったままで膝が上にあがるようになりました事は、いかに力がはいりつつあるかを立証するものです。そして非常に冷い足が、御浄霊中は焼けるように熱をおびて来ました。本人は御浄霊を頂くのが何よりも楽しみらしいのでございます。私がいつも背負って御参詣に連れて行きますが、私の帰るのを待てず、一人で松葉杖に縋りつつ御参り致します事が再三でした。更に以前は寝る時えびのような恰好で眠っておりましたのが、最近ではさも楽しそうに大の字になって眠っております。

 これらすべてを綜合する時、衷心より神様の深き御恵の有難さに感謝申し上ぐると共に、いかに御神業の偉大なるかに感激致している次第であります。

 明主様、誠に有難う御座います。厚く御礼御報告申し上げます。
          (昭和二十七年七月十七日)

嗚呼、小児麻痺治るこのよろこび

島根県   U.M (41)


 明主様、御恵を頂きまして御礼の御報告申し上げます。私は妊娠三カ月目より血色が悪くなり、足はダルクなって来ましたので、お医者の診断を受けましたら心臓脚気の病名をつけました。毎日毎日薬を服用致しますけれども一向良くなりません。外の仕事などは全然出来ず家の中でようやく動いている程度で御座いました。これではとても安産は出来にくい事と思い心配していましたところ、案外にもたやすく男の子を出産致しました。けれども一カ月後より乳が出なくなりましたので、その当時の配給のミルクにて育てました。私が妊娠中から薬浸りでおりましたために、乳が出なくなったものと思っています。産後の私も病身となり、子供も発育充分でなく、親子ともに暗い月日を過しておりました。それまで健康な一家でありましただけに、余計に家内中が途方に暮れてしまいました。年月の経つのは早いもの、三歳を迎えましたのに子供の足は立たず、言葉はわからず、これではと早速医者の診断を受けましたけれども、病名は付けてくれず「治る見込みは難かしい」とのことでした。これで一生の不具者になるかと思うと、心配やら可哀相やらで寝ても起きてもいられません。スッカリ心身が弱くなってしまいました私には、並大抵の苦労では御座いませんでした。そういう状態のある日、親戚から見舞に来てくれました叔母が、「救世教という有難いお蔭の宗教が、出雲にも大変広まっていて、医者でなおらない病気がどんどんなおるそうだが信仰して見たら」と申され、それならと早速お願い致しました。昭和二十四年三月十五日、叔母の知人で熱心な信者さんであるI様の道案内でS先生がおいでになりまして、救いの道のお話を詳しくお聞かせ下さいまして、早速入信の手続きを取って貰いました。そして五月十七日の月並祭に、出雲市のO支部へ母子共主人に連れられ参拝致しました。K先生より御講話をお聞き致し、お光のお守様を頂きまして御浄霊をお受け致しましたところ、背の方を御浄霊下される時何か延髄辺がスーッと風に当ったかのような感じが致しますと、後は温くなって参りました。実に気持がよくなりました。これならきっと二人とも御神徳が頂かれる事と確信致しました。次に子供の病気については御親切に教えて下さいました。「妊娠中から服用された薬毒のための小児麻痺だと思いますから、毎日根気よく御浄霊を受けられましたら、必ずお二人共全快致されます」と力強く申されましたので、毎日御浄霊を続け、又教会の月並祭毎に親子共参拝を続けさせて頂きました。お蔭様により私は家業の手伝が出来る程元気になりました。十月には御屏風観音様をお祀りし、段々と家内中が入信させて頂き、二十五年一月には光明如来様を御奉斎させて頂きました。それから家内中が一心に光明如来様にお縋り致して子供の御守護をお願いしましてからは、生後四年になっても這う事も出来なかった子供が、いざりばいをするようになって来ました。本当に家内中が声をあげての喜びで御座いました。四月には一人にて立つ様になり、八月には歩き始めました。十一月一五日の紐落しには、氏神様へ靴を履いて参詣致しました。その喜びは筆や口には尽されません。家内中で御神前で声をあげて泣きながら御礼を申し上げた次第で御座います。

 小児麻痺という呪われた病気のため、一生を不具廃人として日蔭者の生活を送る不幸な人が、世界中にはいかに多い事で御座いましよう。現代医学もなすすべを知らないこの恐るべき一生の難病が、たった一カ年たらずで全快してしまったので御座います。たまたま外国で小児麻痺なんかが特殊な困難を極める治療法で治った例等リーダーズ・ダイジェストなどに報じられていますが、これらの方法はとてもとても一般家庭で出来得る事ではなく全く不可能とも言うべき方法でありまして、しかもそれを完全にやったとしても、全部が全部完全に治癒するかどうかは疑わしいと思われましたので……

 明主様の御示し下さいます御救のお力と御教は、誰でも簡単にしかも楽しみながら出来、その上に短期間に効果百パーセントなので御座いますから、その有難さは、又ひとしおであります。ああ! どうしてこんなに有難いお道を、尊いお方を、世の中の人は嘲笑するので御座いましよう。……それはやはり御救い頂きました私達の真心が足りないのだと存じます。本当に申訳ない事で御座います。なお本年に入りましてよりは大光明如来様も御祀りさせて頂き、又愚息(W)事は神仙郷へ御奉仕をさせて頂き、自然農法の上にも大きな御恵頂き、一から十まで誠に御守護の連続でありまして、病気地獄の一家が今では全く天国一家で御座います。まことに有難う御座いました。
             (昭和二十七年二月二日)

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