今までの宗教等で色々説いてあるが、断片的であって真相は不明である。それを出来るだけ判る様に組立てた心算(つもり)である。初めての人もこれを頭から信じて聞いていたゞくとよく解る。
仏界は追々となくなり、仏が神界へお帰りになる。これにより仏滅となる。八段地獄ということを日蓮上人は言ったが、九段地獄が本当である。これでやはりみろくである。
神界は霊界にも現界にも有るが、天国の方はただ今の社会ではない位のものである。今のところでは第三天国がやっと出来ている位のものである。それに引換へ地獄は立派すぎる程良く出来ているのは余り感心出来ぬ事である。
天国を現界に作るのが我観音会の御用なのである。宗教は人を天国へ上げようとして働き、悪魔は地獄へ引落そうと一心になってかゝっている。この働きが現界において宗教と悪魔との戦いなのであるが、今までは皆悪魔に負けているのである。それは今まで悪の守護であった為、悪の方が力が強かったのである。仏界は追々となくなり、神界ばかりと成るのであるが、これは仏が神界へ御帰りになるからである。これを以て仏滅となるのである。お引揚げになるとは仏が日本へ帰られる事である。仏界では毎日何をしているかと言うと、毎日色々なお説教など聞いているのであって弘法信者は弘法の霊界へ集り、日蓮信者は日蓮の霊界へ集って行くから、これらの僧達のお説教を聞いているのである。今の神界は現界とは少しも関係はないのである。
人の生死の状態
人の死する時、善人の死する有様は頭から霊が抜けて霊界に行くのであるが、この時自分の体(なきがら)が下に寝ている有様、又親戚や親兄弟達がなきがらに取付いて泣いているのを見る事があるが、これを知らしてやりたくても幽冥処を異(こと)にしている為知らせることが出来ず、そのまま霊界へ行くのである。これに反して悪人の死は足の方から霊がぬけて逆様に地獄へ落ちるのであるが、これらの霊は死すると一度は必ず三途の川へ行く。川には水があると言う霊と蛇がたくさんいるのだと言う霊とある。川の幅は広いので長い橋がかけてあるがその橋を渡る時衣類の色が変るのである。悪人は黒くなる。この川端に奪衣婆(だつえば)がいて衣類を剥ぐのである。この橋を渡ると閻魔の庁の調べがあるが、今までの善事も悪事も判っているので簡単である。
又浄玻璃(じょうはり)の鏡にて写すといかに隠すとも明かとなり隠し切れない。ここで改心した霊は八衢(やちまた)へ行く(六道の辻)。精霊界、ここで僧侶が説教している。これにより改心した霊は天国へ行くのであるが、今後追々仏界がなくなり神界になるのである。
この八衢で修行していても、神界は目映(まば)ゆくて行けぬ者もあり、又霊魂相応で暗いところがすきで自ら地獄へ行くのもあるが、これらは乞食に金殿玉楼で立派な料理を頂戴すると、水っぽくて甘くなく窮屈でたまらん様なもので、それより塩からい煮しめものでもたべた方が余程よいと云う様なものである
観音会は最奥天国に相応する教である。人の為に働く等はつまらん等という者は最奥天国でないのであって、この様な人は又それ相当の信仰を求めて行くのである。
観音会は世界人類の為に働くのであって、自己の栄達等は問題外であるが、自己栄達を問題外にして世界人類の為に働くことにより、結局自己の道が拓けてくるのである。これに反して世界人類の為なんて馬鹿々々しい等と、自己栄達のみに心を傾ける人こそは逆に落されるのである。世界人類の為に働く事のいかに大きな御用であるかは、神様御経綸の直接の御用であるからである。
地獄界は下へ行く程暗く冷いのである。神は熱と光であるからそれに遠ざかる。それだけ暗く冷たくなるのである。八衢の明るさは現界と同様位であって、第三天国は現界の三倍、第二天国は五倍、第一天国は七倍位である。
最奥天国は光の世界である。
この地獄道は現界で人々が行っていた通りの道へ行くのである。色欲道で情死したものによく抱合情死があるが、この人の罪により体が喰付き合って離れる事が出来ぬために、歩く事すら困難を感ずる様な事になる。霊界に行って楽に暮せるものと思うと大変な違いで、霊界で反って苦しまねばならんのである。
特に主人の妻と姦通しての情死などした時は、一人は立ち一人は逆に体が喰付き歩く事すら出来ぬ事になる。又死んだら苦痛はなくなると思うと間違いで、これは霊界は現界の延長であるからである。病苦が霊にそのまゝ続くのである。三原山で死んだのは焦熱地獄へ行くのであるが、これは焼死ぬからである。その焼死ぬ時そのまゝの状態が続くからなのである。自殺は皆地獄行きである。
水死は極寒地獄である。これは水に漬り通しであるからである。お産で死んだのは血の池地獄である。
病死すれば病気は無くなると思うと大違いである。決して治ってはいない。むしろ苦痛が酷くなっている。それはなぜかと言うと霊は感じが強いから、それだけ痛み苦しみが強いのである。
餓鬼道には供養されない霊が行くのである。又強欲非道の霊もこの道である。これは強欲の為に人を苦しめ悩ますからである。供養の事については、色々の霊は喰うのであるが、本当の神様は食物は召上がらんで、反って神饌(しんせん)物に霊気を入れて下さる。大神様は森羅万象皆自分のものであるから人の上げるものなぞ召上らんでも良いのである。召し上りたければ何んでも召し上がれる。それも決して盗み喰いするのではない。これに反し餓鬼は店に並べてある食物等やたらに喰う。この為に店に列べてあるものは不味(まず)くなるのである。今までの神様は人間の上げるものを食するだけの神様であったのであると言う事がよく判るのである。
畜生道へ落ちる霊は餓鬼道の霊が犬猫の食物を喰っているのを横から取って食べる様なのがあるが、それが獣と霊がくるみ合って終い、畜生道に落ちるのである。犬や猫の中によく人間の用をするのがあるが、これらの霊が生れ更って来たもので人の用をして罪を赦されて次には人間に生れ更るのである。その霊は人間に祀られるから自然それと同様に霊がくるみ合っている為、同様に祀られてこの次に生れる時人間に生れてくるのであってこれを転生という。
人が人に生れることを再生と言い、天から下るを降誕と云う。高貴の人の生れるのを生誕と言い、普通の人の生れるのを誕生と言う。又出生ともいう。神様等のお生れを降誕と言うているのは良く判る。
地獄で一番長く苦しんでいる霊は六千年であって、それからは最底の地獄の霊でも許されるのである。底の国とは海底である。
又死ぬ時に想念で一人々々が余程違うのである。生の執着の多少にて非常に違う。早く死んで極楽に行きたいと思って死ぬ人は早く生れ変ってこない。なぜならば、自分の思った所へ行けた為、再び人として生れ変って来よう等と思わないからである。これに反して生の執着の強い人は早く生れ変ってくる。脳溢血等にて急に死んだ人は特に供養しなければならん。生の執着の為に身寄りに懸って病気をさしたり等するのはこの様な霊に多い。又親が赤坊の死を嘆くとこの為に早く生れ変って来るのが多いが、余り早く生れ変って来た児は良くない。これは未だ赤坊の霊が浄化していないからである。この赤坊が浄化して後ならば立派な児に生れ代って来る。
龍 神 界
龍神界は霊界にあるのである。龍神は主として天然現象を司っているものである。あの気象台の何百何十ミリの低気圧とか、不連続線等と言うのは皆龍神の役である。龍神界は霊界的活動である。
日 金龍 国常立尊(くにとこたちのみこと)(男龍)男龍を生む。
天皇 天龍 天皇に生れる龍神、最高の龍神。
月 銀龍 豊雲野尊(とよくもぬのみこと)(女龍) 女龍を生む。
これが最高の龍神である。金龍が地中へ潜む時(潜龍)光を隠して黄龍(蛟龍)となる。金龍及銀龍は天龍を守護しているのである。
地球踏み固めの時は国常立尊、豊雲野尊がたくさんの龍神を生んで踏み固められたのである。谷又は谷川は龍神がくねって歩いた痕が出来たそれなのである。これらは皆大きな龍神であった事は、色々の龍神の通った痕等でよく判るのである。この龍神が死んで霊体となり色々の御用をしているのである。天地の浄化作用をするのは龍神である。
白 龍―雨を降らし又水を清める。
青 龍―人間は大抵この青龍(青大将)となるのである。
山 龍―風及雲を起す。高山に雲の多いのは山龍が製造しているのだ。風も高い山から起きる事が多い。
木 龍―木に宿り居る龍神で松と柳が多い。鱗の様になり居る。
火 龍―雷を起し大きな火事で焼き払う、大火事の時又は飛火は火龍が持って行くのである。
地 龍―地震を起すのはこの龍神である。
赤 龍―サタンである。
黒 龍―強悪最もはなはだしい悪龍である。
海 龍―龍宮の乙姫の事である。
九頭龍―この龍神が私によく懸って来たことがあったが、この龍神が追々人間化して話をする様になり、富士山に居る久須志宮であると言った。富士山に立派にある。この九頭龍は八大龍王の頭である。
九大龍王というのが本当であるが、伊都能売金龍を匿したのである。乙姫の乙の字にノの字を加えれば九となるので、乙姫より上の龍神である事も判る。又龍の一番上の龍神であるのだ。
女龍は水の働きをした。水を配ったのは女龍である。今地下から水の出るのはこの龍神の歩いた道であって、この為この道も曲りくねっているのである。又太いのと細いのとあるが、龍神の大小によるのである。
天 狗 界(中界)
この天狗界は現界活動である。天狗は男ばかりである。天界、中界、下界とある。中で天狗界は中界であって、山岳地帯にあるのである。絵で見る彼の鼻の高い顔の赤い彼である。天狗の総大将が猿田彦命である。鞍馬山に居るのである。牛若丸は鞍馬山において猿田彦命から色々教えられたのである。牛若丸は非常に神様に因縁のある人である。 天狗中に人天、鳥天の二種がある。人天狗は神官、僧侶、学者等がなるのである。これらは良くも悪くもなくて天国へ登れず、地獄へも行かなかった連中の為の中界で、天狗界に入ったのである。
鳥天狗はこの中に又烏天狗と木の葉天狗との二種がある。烏天狗は烏がなるのであって、烏は天照大神の御使であると言われる位で、神様に因縁のある鳥である。木葉天狗とは烏以外の他の鳥が死ぬと皆木葉天狗となるのである。猿田彦命は元は第二天国の神様であったが、悪い事をしてその罪により天狗界に落され、天狗界の総大将となったのである。
道了権現、秋葉、半僧坊等は皆天狗である。道了権現は鷲である。天狗界は非常に問答が好きであるところから問答や議論が職業である。問答をして勝ったところに位が上って行くのである。又その間に碁や将棋をやる。とにかく勝負好きである。天狗の言葉はサシスセソである。
天狗は翔ける事と、字を書くことが好きである。とても上手な字を書く。天狗は皆高い山に居る。霊力があるからこっちの山から向うの山へ人間をやる等造作なく出来る。子供等十里位僅かの時間に運ぶのである。今までの霊術者等というのは皆この類(たぐい)である。大霊道の田中守平、隠田の神様、飯野吉三郎等はこれである。この天狗の懸った時は非常に威張るのである。これらも良いことをすれば救われるが、直に威張ったり、悪い事をしたり、女を自由にしたりする為に、神様から天狗の霊を引上げられるので、何も出来なくなるのである。飯野吉三郎が霊が効かなくなったのもこの通りで悪い事をして霊を引ぬかれたのである。
天狗と仙人とは良く似ている。同じ様なものである。仙人とは人間が仙術を覚えるのである。朝鮮には仙人が多いのである。
仙人の中に天仙人、山仙人、地仙人と三種ある。仙人の修行をするには蕎麦粉に、松葉等を入れ、団子にして一日五六ケ宛(ずつ)喰い、順次に少くして、終いには一ケ位で充分となり、非常に身軽くなり、山を飛越す等しても少しも怖い事を知らぬのである。この仙人は終には食物無しでも生きて行けるのである。
今でも相当仙人は居るらしい。霞を吸って生きている等という事も事実修行すれば出来るのである。この仙人となるにはどこかに大先生がある。弟子は二人か三人より取らぬが、この大先生について皆習うのである。
平田篤胤の書いた話で寅吉物語は、仙人の話であるが確実性がある。これは寅吉から直接聞いた話であるが随分変った話がある。
天狗は山を穢されん様に守護しているのである。山で死んだり、迷ったりするのは山を穢したので天狗にやられたのである。山に登るには敬虔なる気持で、山の霊気にふれさせて頂くと言う気持で行かなければいけないのである。天狗は東京―大阪間を三分位で行くと言うから驚く。武芸者の飛切術は天狗がやらしたのである。
霊界と現界との関係
現界 火 水 土
火は水と物とで燃ゆるのである。水は火により流れるのである。火が無ければ凍結す。夫婦にしてもこれと同様に、正反対なるが為に生成化育が出来進歩発達するのである。いかに反対な性格でも子供が出来るだけ調和がとれているのである。土は木、石、金、火、水、灰、炭、酸、密、結、粘の十一種より成る。故に十一則ち土である。
空気の世界 酸 窒 水 の三種で力及水火となる。
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力 水 火
霊界 エレクトン ミクルトン
陽電子 陰電子
陽 陰
陽子 陰子
陽密子 陰密子=(今後発見さるべき物)
陽電子と陰電子と寄りて霊素となり、霊素がよりて物質となるのである。
現在発見されたものに右記陽子という非常に細かいものがあるが、これに対する陰子も発見されんとしている。なお又その後に発見さるべきものに仮に陽密子、陰密子と名付けたが、これも今後において発見さるべきものである。
霊界は霊素、精素、密素の三段にならねばならぬ。これによりて初めて霊界が解ってくるのである。これが解れば学問上よりも神様が知れる様になるのだ。
音にも光と色とがあるのであって、これをトーキーに写せるという事になったと言うが、音楽家がこの色と光と各々個性により相違があるが作曲家によって色が種々に変って出るが美しい。それが一人一人違うから面白いのである。
「道〔言葉〕は神なり万物〔これ〕によりて作らる」という事がある。私の言葉の働きは大変なものである。大森にまだ在住の節言霊を以って病気を治した事があったが、必ず癒(なお)るが、これでは罪穢が取れぬから手で擦って罪穢を除って病気を癒すのが肝心である。結局神霊と科学は一緒になるのである。神霊は日本であり、科学は外国でもある。この神霊及科学が非常なる速さで近寄りつゝあるのである。
神霊=日本=天照皇大御神=日の本=極微極大
科学=外国=素盞嗚尊=ユダヤ
ユダヤが日本に従う時が五六七の始まりであり、大光明世界の第一歩になるのである。観音様の御経綸をこれに向って進めているのであるが、これはハッキリと解り切っているからよいのである。少しも心配なく必ずこゝまで到着するのである。
(昭和十年八月十五日)