人生死の問題ほど切実なる問題はあるまい。故に死及び死後について幻想的でない実証的の解説を得たならばこれほどの喜びはないであろう。私はこの問題に対し霊的事象の研究から得た成果を発表し、遍く世人に知らせ、蒙を啓(ひら)きたく思うのである。尤(もっと)も死後の問題に対しては欧米においても心霊研究家としてオリヴァー・ロッジ卿、メーテルリンク、ワード博士等のごときは名著もあり、その界の権威でもある。日本においても故浅野和三郎氏のごときは心霊研究家としてその造詣も深く、著書も多数あり、数年前物故したが、私もいささか関係があったので惜しまれるのである。
私が霊の問題を説くに当って断わっておきたい事は、できるだけ自分自身の経験を主として記述する事にした。これは正確を期する為で、何分霊に関した問題は捕捉し難い不可視的である以上、ともすればドグマに陥り易いからである。
人間は曩(さき)に説いたごとく、使用不能になった肉体から離脱した霊は、霊界に復帰し霊界人となり、霊界生活が始まるのである。そうしてまず人間死の刹那はいかなる状態であるかを霊界から観察した時の模様を記(か)いてみよう。
死即ち精霊が肉体から離脱の場合、概(おおむ)ね人体の三個所から出る。即ち前額部、臍部、足の爪先からである。この区別はいかなる理由によるかというに、霊の清浄なるものは前額部、中位のものは臍部、汚濁せるものは足部という訳である。その理由としては霊の清浄なるものは、生前善を行い徳を積み霊が浄化された為で、汚濁は生前罪穢を累(かさ)ねたるもの、中位はその中間であって凡ては相応の理によるのである。また左の例は死の刹那を霊視したある看護婦の手記であるが、非常によく書いてあるから参考に供する事にした。
これは西洋の例であるが、人によって霊の見える人が西洋にも日本にもたまたまあるのである。私は悉(くわ)しい事は忘れたが、要点だけは覚えているから記(か)いてみよう。「私は、ある時今や死に垂(なんな)んとする病人を凝視していると、額の辺から一条の白色の霧のようなものが立昇り、空間に緩(ゆる)やかに拡がりゆくのである。そうする裡(うち)に、雲烟(うんえん)のごとき一つの大きな不規則な塊のようなものになったかと思うと、間もなくしかも徐々として人体の形状のごとくなり、数分後には全く生前そのままの姿となって空間に起ち、凝(じ)っと自己の死骸を見詰めており、死骸に取ついて近親者が悲嘆に暮れているのに対し、自分の存在を知らしたいような風に見えたが、何しろ幽冥所を異にしているので諦めたか、暫くして向直り窓の方に進んで行き、頗(すこぶ)る軽げに外へ出て行った」というのであるが、これは全く死の刹那をよく表わしている。
仏教においては人の死を往生という。これは現界からみれば往死であるが、霊界から見れば生れてくる、即ち往生である。また死ぬ前の事を生前というのも右の意味に外ならないのである。そうして人間は霊界における生活を、何年か何十年何百年か続けて再び生れるのである。かくのごとき生き代り死に替り何回でも生れてくるので、仏語に輪廻転生とはこの事を謂(い)ったものであろう。
霊界なるものは人間に対しいかなる関係ありやというに、それは現界において、神よりの受命者として人各々の業務を遂行するにおいて、意識せると意識せざるとに係わらず、霊体に汚穢(おわい)が堆積する。それと共に肉体も病気、老衰等によって受命を遂行し難くなるから、一旦体を捨てて霊界に復帰する。即ち帰幽である。昔から霊の抜けた体を称してナキガラという事や肉体をカラダというのもそういう意味である。そうして霊魂が霊界に入るや、大多数は汚穢の浄化作用が始まる。汚穢の量によって霊界生活においての高下と浄化時限の長短があるのはもちろんで、早きは数年数十年、遅きは数百年数千年に及ぶものさえある。そうしてある程度浄化されたものは、神の受命により再生するのである。右は普通の順序であるが、人により順序通りゆかぬ場合がある。それは生に対する執着であって、死に際会し生の執着が強いものは、霊界の浄化が不充分でありながら再生する場合もある。こういう人は不幸の運命を辿るのである。何となれば浄化不充分の為、前生における罪穢が相当残存しておりそれの浄化が発生するからである。この理によって世間よく善人にして不幸な人があるが、かかる人は前生において罪を累ね、死に際会し翻然(ほんぜん)と悔悟(かいご)し、人間は未来永劫悪は為すまじと固く決心し、その想念が霊魂に滲み着いており、浄化不充分のまま再生するをもって、悪を嫌い善を行うに係わらず不幸の境遇を辿るのである。しかしながらこういう人もある期間不幸が続き、罪穢が払拭されるにおいて一躍幸福者となる例もまた尠(すくな)くないのである。またこういう人がある。自分の妻以外の女は知らないという品行方正を誇りとするのや、妻帯を欲せず、独身同様に終るものもあるが、これらの人は前世において、婦人関係によって不幸の原因を作り、死に際会し女性に対する一種の恐怖心を抱き、その想念が霊魂に滲み着いている為である。その他鳥獣、虫類等のある種に対し、特に嫌悪または恐怖を抱くものがあるが、それ等も、その動物によって死の原因を作った為である。また水を恐れたり、火を恐れたり、高所を恐れたりするのは、それ等が原因となった為である。
人間恐怖症というのがある。譬(たと)えば多人数集合の場所を恐れるが、これらも人混みで押つぶされたりして死せる為であり、面白いのは独居を恐怖するものがある。私が扱った患者でこういう人があった。それは留守居ができない。即ち己一人では淋しく恐ろしいので独居の場合は必ず外へ出て誰か帰るまで待っているのである。これらは前世において独居の際急病が起り人を招んでも間に合わぬうち死せるものであろう。以上のごとき数種の例によっても、人間は死に際し、執着や恐怖等なく、平安に大往生を遂ぐるよう、平常から心掛くべきである。
生れながらにして奇型や不具者があるが、これは霊界において、完全に浄化が行われない裡(うち)再生するからである。譬えば高所から転落して手や足を折った場合、それが治り切らないうちに生れてくるからである。
また早く再生する原因として、本人の執着のみでなく遺族の執着も影響する。世間よく愛児が死んでから間もなく妊娠し生れるという例があるが、これらは全く死んだ愛児が母親の執着によって早く再生するのであるが、こういう子供はあまり幸福ではないのである。
人は生れながらにして賢愚の別がある。これはどういう訳かというと、古い霊魂と新しい霊魂との差異によるのである。古い霊魂とは、再生の度数が多く現世の経験を豊かに持っているからで、これに反し新しい霊魂とは霊界において新生して間もないものであるから、経験が浅くどうしても愚かな訳である。そうして新しい霊魂とは、霊界におても生殖作用が行われ生誕するのである。
また誰しも経験する所であるが、見ず知らずの他人であっても、一度接するや親子のごとく兄弟のごとく、否それ以上に親しみを感ずる事があるが、これは前生において、近親者または非常に親密な間柄であった為で、この事を称して、因縁というのである。また旅行などした際、ある場所に非常に親しみを感ずる事があり、是非住みたいと思う事がある。それ等は前生においてその辺に住み、または長く滞在していた為である。また男女関係などの場合、熱烈な恋愛に陥り、盲目的にまで進む場合があるが、これらも前生において心と心とで相愛しながら結合の機会を得なかった、処が今生(こんじょう)においてその機会を得たので、爆発的恋愛関係となるのである。
また歴史を繙(ひもと)く時、ある時代の場面や人物などに好感や親しみを持ったり、反対に憎悪する事があるが、それ等も自分がその時代に生れ合せ、何か知ら関係があった為である。