御教え集2号 昭和二十六年九月五日 *法難

今度の『新しき暴力』に対して、私は付録を書きましたがね。何しろ、あの付録を見れば分かりますがね。警察官などのやり方は到底信じられないですね。全然拵え事ばかりです。だから、この間の新聞にも――殺人なんですがね――あれは警察官がつくったものですね。拷問同様な事してつくったものですね。それで起訴されて、一審では無罪で、検事控訴で、二審も無罪です。無罪になっても疑いがあるから大いに調べると、検事が言っているが、被告の方では、検事のひどい取り調べを告訴しましたが、ああ言う事を聞くと、我々は良く分かります。犯罪製造検事ですね。熱心なのは確かに熱心ですね。熱心な事は感心します。だが、そうなって来ると、平沢の事件なんかも、どうなるか分からない様に思われて来るですね。今もって、平沢は頑張ってますが、平沢の言う事も信じられませんが、今の警察官や検事のやり方をみると、どうも平沢は――悪い事はある。それは自分でも認めているが――毒殺事件、あのほうはどうだか分かからないと言う様な気がして来るんですね。あんまり、そう言う事は言えませんが、そう言う風に思われる程のやり方が盛んに行われてますからね。だから、正しくやっていれば、平沢の問題だって、無論当局を信じますが、信じられない様なやり方をするんで困ってますがね。

今度の『新しき暴力』は、付録が出るんですが、あれもできるだけ世間に広めて世論をつくりたいですね。今後も、罪のない人が罪にされるかも分からない。そう言う人を救ってやらなければならない。実に可哀相です。やはり(救世)の意味からね。悪人の為に善人が苦しむと言う事は救わなければならない。救うには世間に知らさなければならない。そうして、そう言うやり方を改正しなければならないと言う意味から、宗教家としては似合わしからぬ事をやった。と言う訳ではないが、今迄悪人がのさばって、善人が引っ込んで、頭を押さえられていたが、これが非常に悪い。私は飽く迄も、善は助けなければならないと思う。大いに善を拡げて、悪人とか――悪はやっちやいけない、しない様にする。と言っても、我々だけでは中々だから、そうするんだと言う機運をつくるんです。そうしなければ、本当に良い世の中はできないんです。

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