*安心立命(御垂示録4号 昭和26年11月5日⑪)

《お伺い》信仰の極致は安心立命あんしんりゅうめいの極致と思いますが、人の操縦術の。

《御垂示》操縦術じゃない。そう考えると、それは技術になりますからね。小慧こざかしい技術になるからね。そうじゃなく、自然です。

《お伺い》その応身と言う事で、信仰が最高で、それから安心立命の極致が。

《御垂示》そうですね。安心立命とはちょっと違います。と言うのは、そういった応身の働きによって、多くの人を助けて、神様のお役に立つと言うと、自分が持っている罪穢れが消えていく。なくなってしまって、自分が浄化されなくなる、色んな災難――苦しみと言うのはなくなっていく。そうなって、はじめて安心立命になる。神様にお任せすると言う事になる。いきなり安心立命と言うのは難かしい。それだけ、その人が浄まらなければならない。しかし、そこ迄本当に解って信じられれば、安心立命を得ているんです。何んな事があっても、びくともしなければね。少し位悪くても、これは浄化で、これで毒が減っていくんだからと言う事になる。だから、メシヤ教に入れば、大体は安心立命を得ている。ただ、あまり浄化が強いので、中には迷うのもあるが、どうして自分はこうだろうと思う人もあるが、これは人間として止むを得ないですね。その根底さえ分かっていれば、その苦しみを楽に通過しますからね。だから、私なんか、去年警察でいじめられた時は、実際神様はこう迄しなくても良いじゃないかと、こう思いますよ。しかし、自分は重大使命を持っているから、普通の人より苦しむのは仕方がない、と言う一方の考えもある。

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