釈迦の霊能力 (自観叢書13『世界の六大神秘家』昭和24年12月5日) 日本観音教団編集部客員 須江孝雄

 序 文


 著者須江孝雄氏は信者に非ずして信者なりという立場の人である。その須江氏が私を客観的にみての批判であるところに反っておもしろいと思うのである。しかも宗教的方面における氏の該博なる知識と、それに加えて隠れたる第三者的立場にある某有力なる宗教学者の援助もあって成った本原稿でこれを見せられた私は、一読わが意を得たので、自観叢書中の第十三篇に編入する事となったのである。
 文中、私の神秘力を強調し、第三者から見れば誇大とさえ思わるる節もないではないが、私としてみればよく肯綮(こうけい)にあたっており、いささかも真相に外れた点のない事を確認するのである。

 昭和二十四年十一月
                          自 観 誌

釈迦の霊能

 一、成道前の釈迦

 釈迦はインドの迦毘羅(カピラ)城の浄飯王の太子として生れ(西紀前六世紀)十七歳にして、容姿端正なる耶輸陀羅(やしゅだら)妃を迎えて妃となし、鸞鳳和鳴(らんほうわめい)して新婚の夢こまやかに見えたのもほんのつかの間で、日が暮れて静かになると禅定に入って深き物思いに沈み、閏中の物語りのごときはほとんど眼中になかったと伝えられておる。
 太子は幼にして弓馬の術に巧みで、数多群臣の中にも太子の右に出るものがなかったと言う。また太子は学芸にも秀で、七歳の時既に家庭教師として特に選ばれた、跋陀羅尼(ばだらに)大婆羅門と議論をして、大婆羅門を辟易せしめた程で、その他技芸、典籍、天文、地理、数学等文武の道にかけて何一つ自然に知らぬというものはなかったと伝えられる。
 太子はかくも聡明無類であるばかりでなく、非常に慈悲心に富み、かつ常に瞑想にふけることを喜ばれたので、父王は太子の出家を怖れて、太子十七歳の時才色兼備の妃を迎えたが、太子の瞑想を止むることは出来なかったのである。
 そこで父王は、三時殿を建立して、それに全国より選りに選った幾百の美妓をそろえて、専ら太子の心をひきたてんと努力されたのであるが、これもまた太子の厭世を阻むことが出来ず、遂に太子は二十九歳に至って、王位を捨て、妻子を捨て=当時妃は懐妊していたのである=遁世したのである。
 この一大事実こそ、吾らの潜心考察を要するところで、イエスの言えるごとく、富める者の神の国に入るは、駱駝の針の穴を通るよりもむずかしいのであり、身太子と生れ、栄耀栄華の極みをつくすことの出来た人が、好んで形影相弔らう沙門となって難行苦行を積むに至った現実はこれを心霊的立場から解釈すると霊界より指導があったと見るべきであろう。
 小乗仏教徒の説く釈迦伝には、イエスやパウロやソクラテスやマホメットのごとく、神の声とか、聖霊とか言う神秘的叙述ははなはだ乏しいのであるが、大乗仏典には太子の出家前に、病者となって現れ、老人となって姿を示し、死人となって道に横わり、もって太子をして遁世(トンセイ)の臍(ホゾ)を固めしめたのは浄居天(ジョウゴテン)の変化作用であると説いておる。浄居天の何であるかは明かにされていないが、現実の世界以外の世界、もしくはその世界の居住者を指すものと解すべきであろう。
 これを要するに釈迦は、イエス、パウロ、ソクラテス、マホメット等のごとく、霊界の声をきき、霊界居住者の指示をうけたことは疑う余地がないと思えるのである。が、飽くまで自力開悟を説かんとする小乗仏教徒は、かかる神秘的事実には盲目か、もしくは、つとめてそこに触れることを避けんとしたようである。
 また大乗仏教においては、法身仏、報身仏、応身仏を認め、法華経方便品第二には、「諸仏如来は衆生をして仏智見を開かしめんために世に出現し給う。衆生に仏の智見を示さんがため……衆生をして仏の智見を悟らしめんがため……衆生をして仏の智見の道に入しめんがために……」と説かれてあり、仏界=霊界=の諸仏の念願が仏智見の開示悟入にあるからは、霊能豊かな釈迦が仏界との間の感応道交の行われたことは、今日の心霊学より見るも、まことに当然のことと解すべきであろう。
 もっとも、法身仏、報身仏、応身仏の思想は、釈迦に対する追慕の観念的所産に過ぎないと説く仏学者も少くないが、これらは余りにも唯物的解釈に偏しておる。今日の心霊学より見れば、法報応身仏思想必ずしも否定すべきではない。
 菩薩=釈迦=菩提樹の下の行に当って、「この樹下に坐して我道成らずんば終に起たじ」と発願した時、大地震動して、大音声あり、盲龍地動を聞き、開目して地より湧き出で、五百の青雀虚空に飛びかい、右に菩薩を繰り、又難色の瑞雲起りて香風吹き。……その時、帝釈天凡人の姿と化して浄き軟草を手にして現われたので、菩薩はその軟草を敷き、その上に結跏趺坐された……。諸天善神皆ことごとく歓喜し禽獣息をころし、樹枝を鳴らさず、天に浮べる雲、地に飛ぶ鳥も影をひそめ、天地澄浄、天龍八国ことごとく歓喜し虚空において踊躍讃嘆す……(因果経)
 以上の経文が多少の誇張を交えるであろうことは想像に難くないが、尼連禅河六年の苦行を経て菩提樹下静坐思惟の行に移った時、既に菩薩の位にまで進んでいたと言われる太子が、「正覚成らざれば、この座を起たじ」との一大誓願が霊界に通じてそこに大衝動を惹起せしめたことは否むことは出来ない。吾ら凡夫の善念善行と真剣な意念の統一による念波さえ霊界に影響して先亡の骨肉諸霊魂に歓喜を与え、その高上を助けることは心霊研究者の一致した意見なのである。即ち現界と霊界とは表裏一体であり、両界の交流関係の微妙なることは、現今の心霊研究の結果明かにされているからである。また同じく因果経中の降魔の条には、次のごとき意味の記事がある。
 菩薩が誓をたてて願をおこした時、諸天善神は皆一同に歓喜したが、ただ欲界の第六天に位する魔王の宮殿だけは異状な動揺を始めた。菩薩の発願が魔王をして懊悩せしめ、かきむしるような躁擾を感ぜしめた。即ち「沙門の瞿曇(くどん)が、いま菩提樹下に来て、五欲を捨てて端坐思惟しておる。彼は近く正覚を成就するであろう。さすればやがて一切衆生も済度して、自分の勢力をも凌ぐようになるのは必定である。これは彼の成道に先だって積極的破壊行動をとらねばならぬ」と考え、その子薩陀に計った。薩陀は、「あの菩薩は、神通と言い智恵と言い、すべて明かならぬものはなく諸天善神も驚歎しているほどで、何者も到底対抗出来ない。父上の勢力をもってしてもいかんとも出来ない。悪計をめぐらして却って、禍を招かぬように自重して貰いたい」と答えた。そこで魔王は自分の三人の娘をよんで菩薩の成道をさまたげる事に協力を求めた。それから魔王自ら菩薩を脅迫し、更に三人の娘達は、あるいは媚をもって又は甘言をもって菩薩を誘惑せんと試みた……
 なお魔王必死の活躍、三女等あの手この手の誘惑の状況が実に面白く記述されてある。
 しかるに唯物的仏学者の中には単にこれを釈迦が成道前の精神的葛藤を描写したものと解釈せんとしておる。しかしその間にしばしば出現してこれら悪魔を斥け、釈迦を救けて成道に力を添える神々の光景などを照し合せて考察する時、心霊研究上に現われる幽界、霊界、神界の関係交叉等が、まざまざと目に浮ぶ思いがして、釈迦が深き瞑想中に他界と交流して、その間の消息を物語れるものと解することがむしろ真実感をそそるものがあるのである。殊に悪魔の味方として蛇が現われ、神の使として龍が現れるごとき、心霊学徒の目には興味一入深きものがある。
 なお、虚空の諸天が名香をくゆらし、妙華を雨ふらせ、伎楽をかなで、菩薩を供養したと言い、また菩薩遂に天眼を得て、地獄界、畜生界、餓鬼界、人間界、天上界等を一々観察され、その光景を詳説せることなど、いずれも釈迦が完全に霊能力を発揮するに至った記録として、特に注目に値するものがある。
 釈迦が正覚を得んとの発願以来、絶えず守護してしばしば邪神と戦い、その成道を援助した霊に浄居天と呼ぶのがある。この浄居天が釈迦の成道したのを見て、観喜のあまり手のまい、足のふむ所を知らぬ状態であったと誌されてある。思うにこの浄居天と称する聖霊は、釈迦の守護霊ではなかろうか。
 釈迦が成道によって把握し得た妙法は、いわゆる甚深未曾有の法で、ただ仏のみがこれを知ることが出来る。説き難く、領解し難きものであるを思い、それを説かずに涅槃に入ろうと考えた時、大梵天王、帝釈天、他化自在天等が、その他の諸天と共に釈迦仏の前に大法論を転じて貰いたいと懇請した。そこで仏は満七日の間沈黙を守り、沈思熟考の上ようやく受諾されたとの経文もまた釈迦が他界即ち霊界と交渉のあったことを物語る一節と見ることが出来る。
 釈迦の伝記中には、パウロや、マホメットのごとく、俗人の時、突如として天啓を聴き、霊感にうたれて心機一変したと言う明瞭な境界線は見出せない。が、釈迦が幼少より現世の栄華、享楽を超越し、常に瞑想にふけり、果ては、王位を捨て、妻子を捨てて求道に精進するに至ったその事が、むしろ絶えず霊界より指導をうけていた証左と見るべきではなかろうか。


   二、成道後の釈迦


 しかしながら釈迦が成道して天眼を得、まず一切衆生の性能の上中下、並びに衆生のもつ煩悶の上中下について仔細に観察され、誰を相手として、甘露の門を開くべきかを検討し、かつて太子たりし時出家して一番に教えを受けた阿羅邏(あらら)仙人が、成道後まず自分を教化されよと依頼されたことを思い出し、しかも彼が聡明にして甘露の門をひらく最初の対告衆としてふさわしき人物なるを考慮中突然空中から声があって「阿羅邏仙人は、昨夜亡くなった」と御告げがあったと誌るされてあり、成道後はかかる現象のしばしば起ったことが明かにされておる。
 以上の他、釈迦伝記を通じて見る霊的現象、即ち奇蹟に、バナライ国への途中の暁野に、今しも通りかかった五百人からの隊商があったが、暁野の中程で、空中から天神が彼らに声をかけて、「この度世尊が世に出られた、汝らはその世尊に対し、まず第一番の供養を捧げまつれ」と言われた。そこで彼らは、その世尊はどこにおいでになるかと問うたところ、天神は、「世尊は、じきにここをお通りになる」と答えられた。が、やがて仏は無量の諸天を前後に従えて、そこに現れ、その供養をうけられ、「この布施は食うものをして気力を充たしめ、施者をして安楽無病ならしめかつ年寿を保ち、諸天善神をしてつねに守護せしめん。現世においては父母、妻子、親戚、眷属、皆ことごとく繁栄ならしめ、諸の災怪不祥なく、一門九族の中、もし悪道に堕するものあらば、今の布施の福徳をもって、却って人天に生じ、邪見を起さず、功徳を増進し、常に諸仏如来に近づき奉り、祈願を具足せしむべし」と仰せられ、鵝(が)王のごときお姿をお示しながら、威儀をただして前進されたと誌るされてある。現界、霊界の居住者に供養することの功徳を説かれた教訓を含む有名な記録とされておる。
 また釈迦の霊的現象の記録の中には、龍に関するものが多くある。龍は古来一種の想像物と考えられていたのであるが、心霊研究が発達するにつれて、霊界に厳存することが判明し、かつ霊能力者の眼には実際にこれを見ることが出来た実例が少くない。されば釈迦伝記中の諸龍に関する記録も決してつくり話ではない。釈迦の霊眼では実際に見ることが出来たと解すべきであろう。その一例は、目真龍王の帰依に関する記録で、ある時仏は、アジャバラ水の側にいたり、そこで日が暮れたので禅定に入られた。ところがその後七日の間、大暴風に襲われた。その時アジャバラ水中にあった目真憐陀という大龍王が、仏の入定を見て、その身をもって仏の周囲を七重にとりまき、七日をすぎて龍王は人の形と化し、仏を礼拝したと言うのである。しかも龍が人間の形と化して現界人の目に現れた実例は、心霊現象研究の書物に少くないのである。
 更にかの迦葉の教化に関する記録に神秘的現象が見られる。即ち、マガダ国にウルビンラ迦葉兄弟三人の者がいた。彼らは共に仙術に長じ、国王を始め、一般民衆の帰依も浅からず、また聡明利根でもあった。仏はこれら三兄弟を教化せんとしてこの国にこられたのである。が、迦葉の根づよい我慢の念は、なかなか挫き難いものがあった。そこで彼は仏に向って、「悪龍が住んでいますから、あるいは夜中に殺されるかも知れません。それさえ承知なら御泊りください」と、すこぶる意地悪いことを言った。仏は、その御心配は御無用にと答えて、直ちに石堂の中へ入り、そこで結跏趺坐して禅定に入られた。ところがたちまち悪龍現れ火炎を吐いて、石堂に充ちたが、仏は身心共に不動の禅定に入り、顔容少しも変らず、さすがの悪龍もいつしか降伏して、三帰をうけ、鉢の中へ入れられた。かくて仏はおもむろに天明をまたれた。これを見た迦葉師徒は、仏の神力は認めながら、未だ仏の教化に服しようとはしなかった。第二夜、仏は一樹の下に坐して静かに三昧に入られた。すると夜半、四天王が仏の御前に現われて、共に法を聴き、各々光明を放った。これを見た迦葉師徒は驚きながらもなお教化を拒否した。第三夜は、帝釈天が来下して法を聴き大光明を放ち、第四夜は大梵天が来って法を聴き大光明を放ってあたかも日中太陽を仰ぐがごとく思われた。が、まだ迦葉の驕慢は改まらなかった。そこで仏は種々の心霊現象を現わして彼に示した。それは迦葉が火を燃さんとした時、これを不可能ならしめたこと。また燃ゆる火を消さんとした時もこれを不能に終らせたこと。迦葉が薪を割らんとした時斧を持ち上げることを出来なくしたこと。程遠き閻浮(えんぶ)洲から閻浮果を鉢一杯とり寄せて見せたこと=物品引寄現象=等々で、=これらの現象は今日優秀な霊媒の心霊現象にも現るることあり、釈迦の霊能力を疑うわけにはいかないのである。=かかる数重なる奇蹟的現象を目撃した迦葉等も遂に我慢の角をおさめて仏の教化に服し、有力なる仏弟子となったのである。
 古来釈迦に対する観察は、学者により真に多種多様で、中には釈迦を目して単に一個の説教師なりと評する者すらある。しかしかかる見かたは、釈迦伝記中にある、以上のごとき、霊的現象を解釈する心霊現象の智識なき結果、唯物的見解に堕し、かかる事実を荒唐無稽の作りごとと思うからである。進歩せる今日の心霊研究眼に映ずる釈迦は、確かに霊能力を有する一大神秘家として光彩を放つものである。

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