戦前御教え

光明世界

金龍物語 (口絵霊写真の解説) (光明世界三号 昭和十年五月二十一日)

八大龍王の上に、一の主龍神が被在(アラ)れた。御本体は、伊都能売神龍と申上げ、実は、高貴なる御神霊が、黄金の龍体と化せられ、琵琶湖の湖底深く潜み給ひ、八大龍王と倶に、時を待たれ給ひたのである。
大光明世界の建設

大光明世界の建設 --会主仁斎先生の御話-- (光明世界一号 昭和十年一月一日)

大光明世界といふのは、読んで字の如く「観音の光」に依って、闇のない世界が出来るのであります。闇の無い世界と云ふ事は、苦み悩みのない世界、罪悪のない世界であります。斯ういふ世の中が来ればいゝ、斯ういふ世の中を造り度いといふ事は、何千年前からもろもろの聖賢、或は大宗教家等が大いに教を説き、骨を折ったんであります。所が、そういふ世界は、今日まで出来なかった、
観音講座

観音講座  第三講座  観世音菩薩の本体   救世主の出現

イエスをキリストでないと言う事を見破った者ありて、あれは偽のキリストであると皇帝に告げた。その者を生かして置いたら非常なる間違いになると言う見地からイエスを磔刑にしたのである。イエスは素盞嗚尊が以前罪を犯した為、黄泉国へやられた。その罪を赦して戴くために大きな功をたてなければならん、その贖罪をなされたのである。それ故イエスは贖罪主である。人類の罪の代表者なのである。人類のお詫びの代行者なのである。
大光明世界の建設

大光明世界の建設 罪障消滅 (光明世界二号 昭和十年一月十一日)

個人的にも家庭的にも世界的にも不倖せ難渋が増えても減る事がないのであります 詰り之は何処かに間違ってゐる点が有るに違ひないのであります。ところが、今度「東方の光」即ち観音力に依って、そういふ一切の不倖せの原因が判り、随而不倖せのない世界が出来るのであります。病貧争のない世の中、病貧争、之が完全に無くなって了ふのである。
大光明世界の建設

大光明世界の建設 真のミロク (光明世界二号 昭和十年一月十一日)

仏の世は必ず滅する。そして仏滅後に弥勒が現はれる。それからが初めて五風十雨の正しい世、苦悩のない五六七の世が出現すると予言されて居るんであります。であるからお釈迦様も、ミロク出現迄は苦の娑婆であるから夫迄は多くを望むな、諦めてをれとお説きになられたのが仏法の根本であります。
大光明世界の建設

大光明世界の建設 光明如来 (光明世界二号 昭和十年一月十一日)

 観音様は別名光明如来と申され、光に依って一切を救はれるのであります。今日迄の宗教は罪障消滅するには非常な努力をしなければならないのでありまして、それでもなかなか一生懸っても消滅は六ケ敷かったんでありますが、それが今度は観音様に依って至極簡単に罪障消滅が出来るんであります。何故かと言へばそれは大きな光であって、光で出来るんであります
観音講座

観音講座 第二講座 「宗教の根源と救世主の出現」(昭和十年七月十五日)

地上の御経綸については、初め国常立尊(くにとこたちのみこと)が善一方の世界を出現させるべく御経綸遊ばされたが、余り厳格なりし為諸々の神様が非常に煙たがり反対された為にこれは失敗し、いよいよ善悪二通りで進む事と今後なるのである。二千六百年以前神武天皇に御神勅ありて日本統治をなされた。
大光明世界の建設

大光明世界の建設 御霊光 (光明世界二号 昭和十年一月十一日)

「神体」を書く場合、「観音光」が私の手と筆を通して文字の中へ入って行くんであります。それが為に文字やお像から絶えず光を放射するんであります。その光に依って一家の罪障が除れるんであります。罪障とは、罪の障りと書くんで、此の障りが解消して行くんであります。
大光明世界の建設

大光明世界の建設 光の活動(光明世界三号 昭和十年一月十一日)

私が書いた、御神体は、観音様が直接に、お拵(コシラ) えになられると、言ってもいいのでありますから、此の御神体の強い光に遇へば、一家の暗黒即ち曇は、どんどん解けて、明るくなるんで、実に簡単なんであります。
信仰

大光明世界の建設 本然の道 (光明世界三号 昭和十年一月十一日)

観音様を信仰すれば、病貧争が無くなる斗(バカリ) でなしに、未(マ) だまだ重大な御蔭があるのであります。それは何かと云ふと人間としての「真の道」が判るのであります。あらゆる階級−−あらゆる職業、凡ての老若男女は、各々天から定められた「本然の道」があるのであります。
大光明世界の建設

大光明世界の建設 最後の審判(光明世界三号昭和十年一月十一日)

観音力即ち「東方の光」は、今後、月日の経つに従って、之が段々、拡がって行くのであります。そうなりますと、人為的でなく、自然的に世の中が、変って行くのであります。それは、あらゆる方面に渉って、間違った事や、悪に属する事が、やれなくなって来るんであります。
観音講座

観音講座 第一講座 「主神の御目的と天地経綸の真相」

これから説く事は世界の大秘密である。それをいよいよ暴露するのであります。今までは夜の世界であった。それ故諸々(もろもろ)の穢(きたな)い事が匿(かく)れて居ったのであるが、観音様がこの世に現れた為に霊的に日が出た事になり、いよいよ秘していたことが目に見えて来た
大光明世界の建設

大光明世界の建設(四)本地垂迹説  (光明世界四号昭和十年一月十一日)

若し、仏教が印度を根本としたものならば吾々日本人は、之に向かって額づく事は出来ないのであります。日本には日本の否、天地の主宰神たる、天照大神様が、厳然と鎮座ましますに於てをやであります。故に、此一事こそ、日本人全体が明かに知らねばならぬ緊要事で、之を知って初めて、仏教の価値も判るのであります。
大光明世界の建設

大光明世界の建設(四) 観音様と阿弥陀様(光明世界四号 昭和十年一月十一日)

外の仏様は印度から出たんでありますが、観音様だけは日本から印度へ渡られたんであります。阿弥陀様とお釈迦様とは日本の仏様じゃないのであります。それで頭の毛が縮れてゐるんであります。観音様はちぢれてをりません。よく仏像等で古いのになると一寸見るとお釈迦様か観音様か区別の分らないのがあ
大光明世界の建設

大光明世界の建設(四) 世界統一の中心 (光明世界四号 昭和十年一月十一日)

今迄吾々は、日本が世界を統一すると言ひ、又、それを信じてきました。何故であるかと言ひますと、日本は世界の中心であるといふ事であります。所が、世界は日本を称して、極東の国と言ってをります。極東といふと端っこと言ふ意味になります。その端っこが世界の中心であるとは一寸変にとれるのであります。それに
大光明世界の建設

大光明世界の建設(四)浄財と不浄財             (光明世界四号昭和十年一月十一日)

それは、名前など一切言へませんけれども或宗教の非常な、熱心な信者がありました。 その信者が、神様の事に就て、結構な御用をしたんでありますが、その人は、家賃を何年も払はずにゐるんであります。ツマリ、払ふべきを払はないで御用をしたのであります
大光明世界の建設

大光明世界の実相(五) 聖王母 (光明世界五号 昭和十一年一月二十五日)

昔から三千年の桃の実といふ事がありますが、その謂はれに就てお話致しませう。アノ謡曲にある「西王母(セイオウボ) 」あれは詰りその事になるのであります。「聖王母の園としいふは仏説の胎蔵界の謎にぞありける」「黄錦(コウキン)の御衣(ギョイ) の御袖(ミソデ) をひるがへし桃奉る聖王母かも」
大光明世界の建設

大光明世界の実相(五) 高天原の所在地 (光明世界五号 昭和十一年一月二十五日)

世にタカマガハラ、と言ひますが、あれは間違ってをります。高天(タカアマ)と書いてあるんで、天と言ふ字をマガと言ふ事はない。天(アマ)の岩戸と言ふ様にアメとかアマとか読むのであります。何時の頃からか、マガと読んだのは邪神が、自分に都合のいいやうに、そう読ませたんだと思ふのであります。
大光明世界の建設

大光明世界の実相(五) 万教帰一 (光明世界五号 昭和十一年一月二十五日)

今迄種々(イロイロ)な宗教がありますけれど、それ等は大変間違ひがあるんで、それは神様が、世界経綸の上に於て、本当の事を発表する事が出来なかったんであります。その為に、いくら一生懸命になっても、本当の事が判らない、判らないから種々(シュジュ)と迷ひが起り、迷ひが起るから、人間社会が良くならなかったんであります。
大光明世界の建設

大光明世界の実相(五) 自由無礙 (光明世界五号 昭和十一年一月二十五日)

私はいつも、自動車に乗ってる時に、よく思ふんですが、観音行は恰度、自動車の運転の如うなものである。途を真直に行くにはハンドルを絶えず、右とか左とか動かしてをる。そこが非常に面白い所で、真直と決めれば、必ず障害物に突当ります。それと同じで今迄は物を決めたがったので、それで失敗するのであります。
光明世界

大黒様のお話 −−会主の御講話の続き−− (光明世界一号 昭和十年一月一日)

私は、一昨年の暮から、恵比須大黒をお祭りし、人にも祭らしてゐますが、恵比須大黒に就いての、細いお話は、他日お話する事に致しますが、之を祭ると、確かにお金が入って来ます。病貧争が無くなるに就いて、貧をなくする、之は観音様が、大黒様をお使ひになるのであります。
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「観音講座」(抜粋)

観音会の仕事は人間の心の岩戸を開けば、世界中開かれるのであります。 宇都売之尊(うずめのみこと)が踊って神様を笑わせますが、観音会には笑いが必要なのであります。何故かと申しますと、議論や説教では岩戸は開けません。笑いはにこやかであります。笑い合う様でなければ、心の岩戸は開けません。議論や小言では、逆に岩戸が締まってしまいます。今迄の宗教は、教えるとか説教とかで責めて行きます。理屈や言葉の教えで責めるのであります。