其後釈尊は素晴らしい予言をされた。それは今より数えて五十六億七千万年後、仏滅の世となり、次いで彌勒菩薩下生され弥勒の世を造り給う。彌勒の世というのは、居ながらにして千里の先まで身を運ばれ、居ながらにして千里の先の声を聴き、居ながらにして千里の先から欲するものが得られるというので、其頃としては想像もつかない夢の世界である。処が現在の世界は最早(もはや)右の予言通りになって来ているではないか。としたら物質的には已に彌勒の世となっているのである。処で今迄仏者が迷ったのは、此五十六億七千万年という数字であった。然し之は一寸(ちょっと)考えただけでも直(す)ぐ判る筈である。何となれば如何に釈尊と雖(いえど)も現実的に、五十六億七千万年などという、途方もない先の世の中を、予言される訳はないからである。それ程先の世の中を予言したとて、何の役にも立たないではないか。言う迄もなく、それ迄に地球はどうなるか、テンデ見当もつかないであろう。之は全く五、六、七という数字を知らせんが為である。というのは彌勒の世とは、私のいう五六七の世界であって、此五六七を解釈すれば、五は日であり、六は月であり、七は地の意味になるからで、即ち順序正しい世界という事である。之に就て一層深い意味をかいてみよう。
今迄夜の世界というのは、日が天に昇っていなかった時の事である。勿論霊界の事象ではあるが、之を小さく地球に譬えてみればよく分る。夜は月が上天にあって照らしていたが、段々地球を一周して、西の涯から下って地球の蔭に陰れる。すると太陽が東から昇って、中天に輝くとすれば、之が昼間の世界である。そうなれば天は火であり、中界は水素の世界で水であり、地は依然として地であるから、之が五六七の順序である。右を一言にしていえば、昼の世界とは、今迄見えなかった日が、中天に輝く姿で、それが五六七の世である。
又釈尊は或日(あるひ)弟子から、仏教の真髄を訊かれた事があった。世尊は
『左様一言にしていえば、真如(しんにょ)である』と仰せられた。真如とは無論真如の月の事で、其時既に仏法は月の教である事を示されたのである。そうして真如という文字は、真の如しとかくのであるから、真ではない訳で、此点もよく考えなくてはならない。それから仏典では、実相真如と言われているが、之は逆である。何となれば実相とは、真実という意味で、即ち昼の世界である。真如は夜の世界であるから順序からいって真如が先で実相世界は次に生れるのである。今一つ同じような事がある。それは経文には三千大千世界とあるが、之も逆であるから、私の善言讃詞の中には大千三千世界と直してある。というのは三千世界とは、神幽現の三界であるに対し、之を纏(まと)めて一つにすれば大千世界となる。大とは一人とかくのであって主神御一方が主宰され給う意味である。
次に釈尊は斯ういう事も曰(い)われた。此世は厭離穢土(おんりえど)であり、火宅であり、苦の娑婆(しゃば)でもある。又生病老死の四苦があるとも云われ、諸行無常、諸悪滅法などとも言われたので、どれもこれも世を果敢(はか)なんだ言葉である。又一切空とか空々寂々(くうくうじゃくじゃく)とか、無だとも言われた。そこで右の意味を総括してみると、どうせ此世は苦の娑婆(しゃば)だから、苦は脱(のが)れられない。人間は生れながらにして、苦しみを背負っているのだ。いくら藻掻(もが)いたとて仕方がないから覚るのが肝腎だ。つまり諦めである。人間が如何に大きな望みを抱いたとて無駄であり、一寸(ちょっと)先も分らぬ闇の世であるから、安心など出来よう筈がない。そうして此世は仮の娑婆だから、いくら骨折って造ったものでも結局は無になり、空になって了うので、何事も永遠性はない。だから一切の欲望は結局一時的煩悩(ぼんのう)にしか過ぎないのだから、諦(あきら)める事だ。諦め切って了えば、真の安心立命を得られるのだと説かれたのであって、之が仏教の真髄であるとしたら全く夜の世界の姿をよく物語っている。此意味に於て万事は昼の世界迄の運命でしかない事を、遣憾なく示されている。従って人間は実相世界が来るまで待つより仕方ない事で、それが今日迄の賢明な考え方であったのである。