この物を識るという言葉ほど、深遠微妙にして意味深長なものはあるまい。恐らく此語は世界に誇っていい日本語といえよう。然し簡単には判り難い言葉なので、今出来るだけ判り易くかいてみよう。
物を識ってゐるという言葉の意味を、解剖してみると斯ういう事になる。それは世の中の凡ゆるものを経験し、透徹し、実体を掴み何等かの形によって表現するという意味である。例えば或問題に対して、斯うすれば斯うなるという唯一つの急所を発見する事である。それに引換え大人気ない小児病的議論を振廻したり、軽率な行動に出たり、人から非難され軽蔑される事に気が付かないで平気で行う事がつまり物が見えない、物を知らないという人である。世間よく謂はれる、彼奴は未だ若いとか乳臭いとか、野暮天だとか言はれるのがそういう人間である。又識者という言葉があるが、之は物を識ってゐる人を文化的に言ったのである。
以上によってみても、今日の政治家などは物を知らない人が多過ぎる。大した問題でもないのに、無理に大きく採上げて騒ぎ立て、識者から顰蹙(ひんしゅく)される事に気がつかないのであって、自己の低級さを表白する以外の何物でもないのである。そうして斯ういう人間に限って小乗的主観の亡者である。斯ういう小人物の行動によっていつも国会の能率は阻害され、国会の信用を傷つけられる。常に独りよがり的売名に一生懸命である。故に此の物を識らない人を言い換えれば没分暁漢(わからずや)でもある。
今日政治の論議なども、長い時間を潰してもなかなか結論が得られないのは、右のような没分暁漢が多過ぎるからであらう。判った人が多ければ容易に一致点を見出される筈である。処が茲で困る事には、物の判った人はどうも出しゃ張りを嫌い、わからずやと争うのを避けようとし、つい温和しくなり、引込思案となる。処が没分暁漢共はこれを好い事にして益々出しゃばる。処が世の中は面白いもので、出しゃばると有名になる。有名になると選挙の時の当選率が高くなるので、其結果判った人はいつも少数となり、わからずやが多数を占めるという事になる。近頃の如く問題の論議に徹夜までしなければ結論を得られないというのはよくそれを表はしてゐる。
とはいうものゝ結局は判った人の意見が採用されるのも事実である。何よりも政界で頭角を顕はす程の人は出しゃばらないでゐていつとはなしに人望を博し重用されるのである。今の吉田首相などは、現政治家中一番物の判った人といえるであらう。
処がひとり政界のみならず、社会各面に於ける有能者といはるゝ人は比較的物の判った人であるのは自然の成行であらう。以上は精神的方面をかいたのであるが、次に他の面即ち物的の面をかいてみよう。
これを判り易くかくには、芸術的方面が一番いい、というのは物を識ってる人は、偉人型が多いと共に審美眼に於ても優れてゐるからである。
先づ、最先に採り上げたい人は彼の聖徳太子である。彼が仏教文化特に芸術方面に優れてゐた事は論議の余地はあるまい。今尚法隆寺その他に残ってをるものの何れも燦として光を放ってゐるに見ても明かである。又有名な憲法十七条は、日本に於ける法の基礎ともいえよう。次に挙げたいのは彼の足利義政である。彼が他の面では兎や角言はれるが、芸術方面に到っては立派な功績を遺した。彼の銀閣寺の如き建造物は固より、彼は支那美術を好み宋元時代の優秀なる芸術品を蒐めた外、日本美術を奨励し、珍什名器を作らせた事で、東山御物として今も尚、吾等の鑑賞眼を満足させてゐる功績は高く評価してよからう。
茲で、吾々が最も最大級の讃辞を与えたい人物としては彼の豊太閤であらう。彼が桃山式妍爛(けんらん)たる芸術文化を生んだ半面侘の芸術としての茶の湯に力を注いだ事で、それまで甚だ微々たる存在であった茶の湯を、一世の鬼才千利休を援け、茶道大成の輝やかしい功績を残した事も特筆大書すべきであらう。之等によって当時美術文化の勃興と共に名人巨匠続々輩出した。彼の小堀遠州や楽陶の名手長次郎の如きもそれである。彼は又義政に習い、支那日本の美術は固より朝鮮の名器までも蒐集し、日本の陶芸に新生命を与えたのも彼の業績である。茲で見逃し得ないのは彼の本阿彌光悦の生れた事である。彼光悦は画を描き、書を能くし、蒔絵に新機軸を出し、楽陶を作る等、何れも独創的のものでゆく所可ならざるなき多芸ぶりは、到底他の追随を許さないものがあった。而も彼が予期しない一大功績を残した一事は、彼没後百年を経て、日本が生んだ最高峰の偉匠尾形光琳である。彼は既に亡き光悦を慕い、出藍の一大名人となった。其他陶工仁清、乾山も挿(さしはさ)まない訳にはゆくまい。その又流れを汲んだのが抱一で、彼も凡手ではなかった。
而も秀吉の傑出してゐる点は、彼が百姓の子でありながら、若年にして既に美術の興味を解し、早くから名器を蒐めたという一事は洵に驚嘆すべきものである。普通世間からいえば物を識るまでには相当の苦労を重ね、而も中流以上の境遇を条件とするに対し、彼の如き卑賎より出でて殆んど戦塵の巷を彷徨し続け来ったに拘はらず、何時何処で習得したかは判らないが、あれ程物を知る人間となったという事は、実に稀世の偉人というべきである。
茲で、文芸の面を瞥見(べっけん)する時、何といっても歌人としては西行、俳人としては芭蕉であらう。此二聖の芸術は、物を識る人にしてはじめて成る作品であり、その代表作としていつも私の頭を去らないのは、西行の
「心なき身にもあわれは知られける 鴫(シギ)立つ沢の秋の夕暮」 -と
芭蕉の
「 閑(シズ)かさや 岩にしみ入る 蝉の声」
である。
又今一人書落し難い物を知る人がある。それは不昧公の名で知られてゐる彼の松平雲州公である。彼が多数の珍什名器を聚(あつ)め整理し、分散を防ぎ、萎靡(いび)せんとする茶道に活を入れたる其跡を見れば、彼も亦尊敬すべき人といっていい。
近代に至って物を識る人として、私は俳優故市川団十郎を挙げたい。これは『自観随談』に詳しく載せてあるからこゝでは略すが、兎に角大ザッパに代表的の数人をかいたが、物を識る人とは全く最高の文化人であって、彼等の業績が如何に後世の人々に魂の糧を与え、趣味を豊富にし、情操を高からしめたかは今更言うまでもあるまい。成程発明発見や学問の進歩も、人類文化に貢献する力は誰しも知ってゐる事ではあるが、右に説いた如く、物を識る人の業績が、如何に暗々裡に文化に貢献したかは、改めて見直す必要があらう。