(二)人間の造主
ここで「造主(つくりぬし)」としての人間についてお話致しますが――
そもそも、人間なるものは、誰が造ったのでありましょうか――
宗教的に言えば「造物主」とか「神様」とかいう事になっておりますが、それは余りに古い事で、想像の範囲を超えております。
故に、そうであるとしても、一人残らずそれを信ぜしめる事は到底不可能でありましょう。
しかるに、何人といえども絶対に否定し得ない大事実がある。それは誰しも″自分は親から生れた″という一事であります。自分は親に造られたという事、言い換えれば自分の造主は親であるという事であります。ツマリ″人間の造主は人間である″という事、これこそ一点疑う余地のない厳然たる事実である事であります。
人間には、人間を造り出すという――不可思議な力があるとすれば――その人間の肉体の破損ともいうべき病気を治す力があるのは、当然であります。人間なるものが機械力で作られた″ロボット″のようなものである――とすれば、それが破損は勿論機械力で治るのは、これまた当然な訳であります。この事をはっきり認識出来得るにおいて初めて「人間の病気を、真に治すのは『人間』でなくてはならない」事が判るはずであります。
人間には″一種の神秘力″がある。その″神秘力″とは「一種の霊光」――であります。その霊光なるものは、誰しも有しているのでありますが、人によって、その「霊光放射」に、非常な差異があるのであります。
その霊光放射に差別があるのは、いかなる訳か――といいますと――
その人の魂の曇の程度に因る――のであって、その曇の程度は何によるかというと、その人の有っている――罪穢の多少によるのであって、その罪穢なるものゝ根源は「悪に属する思想と行為」の結果に因るのであります。たとえていえば、君国の為を思い、人類の幸福を念じ善徳を施すにおいて、その誠は正しき神に通じ、その人の魂は、曇が払拭されるから、常に明朗なのであります。こういう利他愛の人は、霊光の放射が強いから、治病力が優れているのであります。
それに反し、国家社会より自己の為のみを思い、人を苦しめて平然たるごとき、自己愛の強い人は、魂に曇が堆積するので、霊光放射が無い訳であります。
元来、病原なるものは、最初に述べた通り精霊の曇であるから、それを払拭するには、病人より清い魂の持主にして初めて目的を達し得らるるのであります。故に、病人と同一程度の曇のある人はいかに治療するも、その効果は、差引無い訳であります。又、病人より曇の多い人が治療すれば、反って、曇を移増するから、病気は悪化するのが事実であります。これによってみても、治療士なるものは「常に操行正しく、社会の模範的人格者」たるべく心掛けねばならぬのであります。
ラジュウムについて説明致しますが、ラジュウムは「病気を治す力」は無く「固める力」であります。人体霊光は「病気を溶解する力」、ツマリ、ラジュウムと反対の作用であります。
(三)生命の真相
魂が「生命の根源」であるのは誰も知るところであります。そもそも「生命」なるものは何ぞや――といえば「神が人間に命令を下される」それを、「生命」というのであります。
生という字は「主」という字の右の肩に「ノ」を書くので「主神」の御事であります。
「生」という字は、神様がお坐りになって「右の御手で命令される形」で、その命令を奉じて人間がこの世へ出て来るんであります。その命令を奉じて活動する。――それが魂であります。
主神の御命令とは――「人間それぞれの天職使命を完全に遂行する」事であります。畏(オソレ)多くも主神の表現であらせられるところの天皇陛下の御命令を奉じて国家社会に尽す事であります。それが人間として、日本人としての天職使命であります。故に「死」とは「御命令の解任」という事になるのであります。
(四)神性と獣性
元来、人間なるものは「神性と獣性」両方面を具備しているもので、向上すれば、「神」となり、堕落すれば「獣」となるのであります。
そして、神に祀られる人は、行正しく生(イキ)ながら神性になった人であります。
例えば、人間の善悪の行為であります。酒を飲みたいとか、女を買いたいとか、金を儲けたいというものは皆「獣性の表れ」であります。
これは、常にいうところの狐狸、蛇、天狗、鳥類等の動物霊で――これが、精霊内にあって、人間の心を専有しようとしているのであります。
しかるに「神から与えられた良心」即ち「魂」の方は、それと反対で「心を良性に導こう」と、絶えず働きかけているのであります。
それが、本治療を受けるとすると――酒が嫌いになり、争などは嫌になるんであります。何となれば――
霊光によって、邪霊は畏縮するからであります。それが為、魂――即ち「良心の力」が増して「邪霊」即ち「獣性」を制える事が出来るようになりますから、立派な人間になるのであります。
しかし、獣性といえども、人間生活において必要があるから、神から与えられているのであります。ただいかなる場合といえども獣性より神性の方が勝てばいいのであります。