『私物語』序文 (未発表 昭和27年執筆)

 今日世界人類の約半数以上は、何らかの宗教信者であり、その中の大部分はキリスト教、回々フイフイ教、仏教の三大宗教がめている事は、今更言う必要はないが、右の三大宗教の創立者は、キリスト、マホメット、釈迦の三聖者である事も分り切った話である。そうして彼らが弘通ぐつうの方法としてのほとんどは、教えを基本としての、筆と口によった事で、それ以外の手段は余り用いなかったようである。

 ところが私に至っては全然ちがっている。右のごとく教えもあるにはあるが、それは一部であって、全体としては人類が生きてゆくに必要なあらゆる文化面に及んでいる。その中でも特に既成文化の誤りをただし、真の文化の在り方を種々幾多の方法と現実とをもって教えている。その最も主眼としているのは、病気と貧乏と争闘をこの地上から消滅する事であって、これは常に私の唱えているところであるから略すが、このような救世の大業を遂行しつつある私を知る人としては、私についての何やかや出来る限り知りたいと思うのは当然であろう。しかもそういう人が将来世界中いかに多数に上るか知れないとしたら、地上天国世界の紀元を作る私としては、後の世のため自分という者のあるがままの姿を出来るだけつまびらかにいて置きたいと思うので、これからかくのである。

 そうして私がいつも思う事は、右の三大聖者にしても、なるほど立派な教えを丹念によくも説いた事は、彼の仏典などが八万四千という浩瀚こうかんなものであるにみて、その努力には頭が下るくらいであるが、不思議な事には自己自身を少しも説かなかった。ちょうど立派な着物をまといながら、裸となるのを嫌うかのように見えるので、感想や告白などは全然知る由もない。つまり腹の中までさらけ出さなかったのである。あるいはそうする事をほっしなかったからでもあろうが、その点はなはだ遺憾に思うのである。

 ところが私は全然異っている。何となれば私というものの一切を、縦横無尽にさらけ出し、思いのまますべてをいてみたいからである。そうして文中不可解な点もあるだろうし、虚々実々、大小、明暗、有限無限等々で、興味津々しんしんたるものがあるであろうから、味わいつつ人生を覚り得ると共に、揺がさる魂の持主となるのは断じて間違いないと思うのである。

(注)
回々(フイフイ)教、イスラム教の別名。
浩瀚(こうかん)書物の巻数やページ数の多いさま。

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