京都劇場に於ける御講話(御教え集9号 昭和27年4月30日)

【御  教  え】今日は信者の方ばかりだそうですから、そのつもりで話をします。

奈良の仏教美術

 今度京都に来たのは、大体二つの目的なんです。一つは、奈良の仏教美術――それを視察する為と、それからもう一つは、京都の地上天国を造る候補地――そういう適当な土地があったというので、それを見る為――その二つの為なんです。昨日奈良方面に行きました。法華寺、薬師寺、東大寺、法隆寺。それから奈良の博物館。博物館は丁度白鳳はくほう天平てんぴょうの仏――それに関した展覧会というのを開催していたので丁度良かったんです。大体奈良に於ける主なるものを見たので、大変得るところがあったんです。大抵、有名な品物は写真で見て居りました。国宝の写真帳なんかに沢山ありましたが、今度実物を見まして、到底想像もしなかった程立派なもので、驚いたんです。しかも千二、三百年位前に、今日でも出来ない位巧な彫刻なんです。これは全く、美術だけは時代逆行ですね。ですから、文化が発達したという事は、要するに元気になったというだけですね。で、そういった芸術的、道徳的には却って逆行したんじゃないかと思う位です。実にその時代の作者の感覚と、技術の秀れたのには驚いたです。特に法隆寺にある品物は、よくもこんな立派なものが集っていると思う位です。そのいずれも実に良いです。あれを美術館にでも並べたい位に思ってますが、しかしあそこに行ってみると、ああいった良いものは――やはり法隆寺としての雰囲気ですね。非常に時代的の一つの色ですね。古い、寂びた姿ですね。そこにああいう古代芸術の立派なものを並べて置くという事が、実に相応ふさわしいです。ですから法隆寺なんかあのままで火事が起らない様に気を付けて、大いに保存して貰いたいという様に思ったんです。それで、一番驚いたのは薬師寺の観音様ですね。あれが実に素晴しいものですね。形といい、姿、お顔、もう到底今のどんな名人が作っても、あの真似は出来ないです。あれが天平時代に出来たという事は、どう考えても想像がつかない位なものです。それから、その他にも驚嘆する様なものがありました。これは奈良に近い人ばかりだから行って見れば判ります。そうくわしく言う必要はないですから、この位にして置きます。

京都に地上天国を

 それで将来京都にも美術館を造りますけれども、そういった様な動かす事の出来ないものは仕方がないが、そうでないものも相当ありますから、そういうものを一堂に集めて、日本の仏教美術を外国の人にも紹介したいと思っている。それで、つまり美術館を造るという所は、それは美術館ばかりでなしに、地上天国を造るつもりなんです。今日見た候補地としては、大体は良い様ですが、未だ値段も聞かない様ですから、懐具合にピッタリ合わなくちゃ、急にどうという事は出来ませんが、しかし神様がすべて準備されたに違いないですから、工合良く行くと思ってます。で、それに就いて、こういう訳なんです。何時も言う通り、箱根の地上天国は五ですね。それで山なんです。それから熱海が六ですね。海です。つまり火と水になる。今度は七ですね。土がなくてはならない。それは平らな土地なんですね。岩石なんかがない――そういう所の条件は、やはり京都より他にないですね。そういう意味で、何時かも話した通り、京都に何れ造る。それは去年京都に初めて来まして、フッと、そういう――まあ、神様のお知らせがあつた訳です。丁度、今度で一年目になる訳ですね。まあ――そこに一歩前進した訳ですね。ですから京都は平らな所で、そうして無論環境ですね。すべてが条件にあっていると思うんです。今日の所は、そういう――大体八十点位の条件が合っている様です。しかしやはり、色々の――広い所に行くと、農地があるとか或いは市の土地だとか、色んな何がありますから、これは神様が段々良い具合にされるだろうと思ってます。そこで、特に京都という所は、丁度世界でいうとフランスに当たるんです。ですからとにかく、芸術のみやこですね。そういう意味があるんで大体今迄もそういう風になってますが、しかしこれから本当に京都を発展させ、わざわざ外国から京都を目当てに見物する位――という位に、要するに美術都市にしなければならないんです。で、京都が日本の美術の中心という事にならなければならない。ところが、現在としては、美術の中心は東京になってますが、これは本当ではないですね。将来京都になるんです。それに就いては、京都に釣合った様な地上天国的のものをこしらえなければならないと思う。それがメシヤ教のやはり一つの使命になっているんですから、京都は美術都市であり、宗教都市ですね。そういう風になる訳ですね。そこで京都としても段々認識する様になるだろうと思います。今が第一歩として自然に進んで、思う様になって行くに違いないと思ってます。今度の目的の話は簡単ですけれども、その位にして置きます。

経と緯と結ばなければならない

 色々の話をしたいと思うんですが、大抵不断気のついた事や思った事は、喋ったり書いたりしてますから、どうも不断言わない様な事を話したいと思うんですが、そう沢山はない訳ですね。で、そうかといって、不断聞いている様な話じゃ、折角遠く迄出て来て意味がないですから、なるべく珍しい話をしたいと、こう思ってます。で、これからお話するのは、今迄余り言わなかった事で、今度の講和ですね。一昨日から効力を発生したという事になってをりますが、これは大変神秘なんです。みんな目出度い目出度いと言って、国中喜んでますが、確かにこれはそれに違いないけれども、しかし誰も分からない様なもっと目出度い事があるんです。これは或いは、人類始って以来の目出度い事かも知れませんね。というのは、大体今世界は――何時も言う通り、精神文化と物質文化と、離れ離れになって、つまりたての棒とよこの棒が結ばってないですね。ところが、緯の棒は――これもお話した事がありますが、物質文化の中心であり、殆ど世界の物質文化の親玉みたいになっているのは米国なんです。今欧洲の文明国がありますけれども、到底今日は米国の素晴しい物質文化には敵わないです。ところで東洋文化ですね。精神文化の東洋文化の方はどうかというと、これも何と言っても日本ですからね。日本こそ精神文化の中心であり、それからして日本は又美術――この中心でもあるんですね。そこで経と緯と結ばなければならない。その結ぶ最初の起点ですね。はずみが一昨日の講和記念日になるんです。で、神様の方ではそういう経綸になっているんです。つまり世界が伊都能売いずのめになるんですね。そこで、つまり十字に結ばる訳ですね。だから、講和を契機として、日本とアメリカは一層仲が良くなるんです。非常に密接になる。従って文化も、日本の文化がアメリカに益々入って行くんですね。それはアメリカでも、日本の特に古代文化なんか認めてますから、そこで日本の美術なんて、そういうものがまだまだずっとアメリカに染み込んで行くんです。それと共にアメリカの文化がもっともっと日本に入って来るんです。それで非常に――夫婦の様に密接になるんです。そんな第一歩が講和記念日からなんです。それで始めて世界が伊都能売の働きになるんです。で、バッジですね。バッジがそれを現わしているんですよ。真中の赤が日の丸なんです。廻りの黄色がアメリカになるんですよ。つまりアメリカに日本が抱かれているんですよ。そうして十字に結ばって、真中がそういう風になる訳ですね。だからして、その意味から言って、この位目出度い事はない訳なんです。で、世界の文化というものは、そうなってからが本当の文化が出来るんです。つまり偏らない本当の文化――それが出来る。まあ、すべて神様の御経綸で着々としてやられているんですから、そういう意味でメシヤ教もこれから非常に世の中に表面的に出て来て、つまり発展する訳です。その結ぶ仕事というものがやはりメシヤ教がやるんですから、今迄余りそういう大きな事を言うと、山師やましみたいに見られますから、なるべくそれは言わない様にしてますが、実際においてそういう様な時期になって来たんです。そこで最初の結ばる意味から言うと、日本の東と西と、この真中が丁度中京になる訳ですがね。で、緯の方は、日本は細長い国ですから、そういちじるしくないですが、経の方は長いですから、東と西がはっきりと別れている。その中心が中京になる。それで一昨日中京の教会に寄り道して一席話したんですが、その意味の話をしたんです。それで霊界に於ける経綸を、私が説明した訳ですね。だからそのつもりでこれからられれば良い訳ですね。で、何事も時期ですからね。こんなに病気が治り、貧乏、争いが解決出来る宗教が、もっとどんどん発展しなければならないと、誰でも思うんです。私始めそういう風に思っているんですが、それはやはり時期ですから、段々ものが育って行く様に一歩一歩進んで行くんです。神様の方は、突如としてパッと成るという事はないんです。それは、大自然の真理にはずれますからね。どんな事でも、一歩一歩育って行くんです。その代り確実ですからね。時期さえ来れば、ちゃんとその通りになる訳です。ですから今度の京都に来た意味なんかも、やはり最初チラッとした位の事が、段々一歩一歩具体化して来ると、こういう訳なんです。

法隆寺「救世観世音」

 それから、昨日面白い事があったんです。昨日法隆寺に行った時に、夢殿というんですが、普通余り参詣人に見せないですね。今迄は一年に一回扉を開いて見せるという事になっているそうです。昨日は突如として、夢殿が開いていたという訳ですね。これは非常に不思議なんですね。やはり神様の方に何か訳があるだろうと思って夢殿に行って見ますと、ちゃんと外の扉が開いて、中のお厨子ずしの扉も開いて、そこに観音様の御像があるんです。はっきりは判りませんが、少し暗いですからね。それと遠くですからね。形が、等身大のお観音様です。それに札が書いてある。「救世観世音」としてある。救世ぐぜ観音様とも言いますが、これは昔から文献にない事はないんですが、唯私はそれに「メシヤ」と仮名をつけたんですね。これは私が初めてやったんです。ですから、私の方から言えば、救世メシヤ観音ですね。文献にはありますが、そう言った観音様の御姿と私は思うんです。見た事がないですからね。大体文献には大きいのは六観音ですね。六つの観音様。それから小さいと言いますかその中に観音が三十三体あります。救世観世音というのはその中には一つもないんです。ですからそこに神秘がある訳ですね。それで私は観音様の所に向かうと、観音様からスーツと霊気が入って来る。実に何とも言えない良い気持です。そうして涙が流れそうになって来た。まあ、長い間待っていたという訳ですね。それで、やはりそういった――神様の方にも時期があるんです。その時期が来る迄はどうする事も出来ない。それで、今迄法隆寺の夢殿に於て時を待たれていたんです。で、いよいよ時が来て、昨日私が行った為に、これから大いにお働きになりたいんです。それで私にかかられたんです。ですから、実に時なんです。これから又観音様が大いにお働きになる筈なんです。そんな様な具合ですからして、一生懸命にやって結構ですけれども、唯あせって、時期の来ないのに色々の心配したりする事は必要ない訳ですね。時を待つという事が一番肝腎な事です。そうかといって、ぼんやり時を待っていては――寝ていて果報を待て――式じゃ、これは駄目で、やる丈の事はやる。そうして唯急ったり無理をしないという事を心得ていれば良い訳ですね。

 そういう訳で、京都のほうぼうのお寺にある色んな仏様ですね。結局はメシヤ教が現われるのを、みんな待たれたんです。それで今度私が来た事に就いても、色んな仏様は霊界で大変な喜びなんですよ。そういう訳ですから、その仏様達が、自分の宗旨の人を段々分からせるんですね。そういう時期が非常に近寄って来ている。この間私は日比谷の公会堂の時の話に、釈迦、キリストは私の弟子に相応するという事を言った訳ですが、随分大きな事なんで、知らない人は驚きます。信者の人は別に驚く人はないんですが、そうすると仏教の方で、法然、親鸞、伝教でんぎょう、日蓮、弘法――ああいう人達が、私の孫弟子になる訳ですね。だからいよいよ親父が出て来た。これは何んでも働いて、色々手柄をしなければならんという事になるんです。そういう事に就いても、これから段々京都に地上天国でも造る様になりますと、そういう仏様達が皆寄って来て、大いに私の言う通りに働く様になりますから、そうするとこっちの方も大発展をするという事ですね。だから非常に期待した時期が近寄った訳です。

お寺の救済

 そうしてもう一つのお話は、昨日もお寺を廻って見ても、実にお寺が疲弊ひへいしてますね。だからいずれは美術館が出来たら、仏教美術を主なるものにしたいと思っているんで、ほうぼうのお寺から――本尊様は仕方がないが、本尊様は馬鹿に大きいが、まあ出せる限りのものを一堂に集めて、そうして日本人はもとより、観光外客にも見せる様にして、入場料を取って、収入を多くして、それをお寺に分配するという様な方法をとったら非常に良いと思う。そうするとお寺の方でも、修繕とか――随分普請をしかけて手をつけないという所がある様ですから、お寺救済にもなると思います。メシヤ教は社会事業はしませんが――養老院だとか、そういう事はしませんが、今言った様な事は一種の社会事業です。しかし私のやる事は、人のやらない事をしたいと思う。他の人が出来る様な事は、する必要がないと思います。他の者がやれない様な事をやろうと思ってますから、今言ったお寺救済と、それから日本の良いもの、良い古いものを、傷まない様に保存する仕事をしなければならんと、そう思っている。これは本当は政府がやるべきですが、政府が予算が足りない為に思う様にいかないので、その欠陥けっかんを補う訳です。大体――今度の旅行に就いての色々なお話はその位の事と思います。

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