医療誤点の種々相(結核信仰療法 昭和27年12月1日)

 医療は毒素を固めて体外へ出さない方法であり、浄霊は其反対に溶かして体外へ排除させる方法である事は、充分判ったであろうが、何しろ人間は今日迄医学を信じ切っている以上、右の理屈が仮に分ったとしても、直に頭脳の切換えは無理であろうから、尚色々の面から解剖のメスを入れてみようと思う。まず今日流行しているの気胸療法であるが、之も肺の外部にある膜と膜との間に空気を入れ、肺を圧迫して活動を弱らせ、呼吸を微弱にする方法で、それによって肺の内部にある毒素の浄化は弱るから、それだけ解熱し、咳も痰も減って空洞は縮小し、治るように見えるので、言わば肺臓だけの局部安静法である。この様に医療は固める事を建前としている以上、医学の進歩とは固め方法の進歩でしかない事は余りにも明らかである。何よりも安静中少しでも運動をすると、忽ち熱発するが、之は幾分でも浄化が発るからで、医師は慌てて戒めるのは、毒結溶解を極度に恐れるからである。

 次に結核の特効薬であるが、之も同じ道理で、近年次から次へと新しい薬が出来るのは残らず人体を弱らせ、固める効果を狙ったものであるから、よく効く薬というのは、副作用を紙一重という処まで起きないようにして、毒を出来るだけ強めたものである。以上によってみる時、現在の結核療法は別段治病上の進歩はなく、単なる固め方法の進歩でしかないのである。彼の造りつけの人形か生ける屍の如く、何年でも寝たきりにさせているのは、自然に固まるのを待つ訳である。而も其為多額の費用を要し、仕事も出来ず、感染の不安さえあるとしたら、何と憐れなものではなかろうか。

 滑稽なのは大気安静療法である。寒風膚をさす冬の夜、窓を開ッ放しにしてジット寝ているのであるから、之では健康者でさえ我慢出来ない寒さの中で、衰弱骨と皮ばかりになっている上に、多少の悪寒もあるのだから、全く悲惨そのものである。それでも治るならまだしもだが、其様にしてまでも悪くなったり、死んだりするのだから、其むごたらしさは言語に絶するのである。之も良い空気を吸わせんが為であろうが、実際からいって空気の善悪は、吾々の経験上余り影響はない。何となれば浄霊で治す場合、都会の悪い空気の中にあっても、治り方にちがいはないからで、第一空気に関係ありとすれば、農村に結核は少ない筈だが、近来は都会と余りちがいがないとは、医学でも唱えている処である。其外こういう事もある。以前はサナトリウム等で日光療法を勧めたものだが、近頃は悪いとして廃めて了った。之なども日光に当れば新陳代謝が旺盛となり、浄化が発り易いからである。要するに現在の結核療法(之は他の病気もそうだが)の根本的誤りは、再三いう通り病毒を固める方法を、治す方法と錯覚するにあるので、この点に目醒めない限り、根治は不可能である。

 次に感冒について今少し言いたい事がある。それはまず風邪を引くや早速医者にかかるか、そうでなければアスピリン、葛根湯かっこんとう、御手製の玉子酒、蜜柑の黒焼などを服んで蒲団を被り、出来るだけ汗を掻くのを可いとしている。又懐工合のいい人は、姑息な療法は危険であるとし、掛りつけの医者に行くが、何しろ現代医学は風邪の原因すら分っていないのだから、患者の安心のゆくような診断は言って呉れない。極力安静を勧める位で心細い事おびただしい。若しか肺炎にでもなったら大変だとビクビクもので、一日中体温計と首ッ引きである。処が度々かいた通り、風邪位結構なものはない。身体の何処かに溜っている毒が、熱で溶け痰や洟水はなみず、汗などになって出るのだから、出るだけ出ればそれで治って了い、後はサッパリとし健康は増すので、早くいえばロハで体内の掃除が出来る訳である。恰度入浴は外部の清潔法だが、風邪は内部の清潔法と思えばいい。つまり皮膚に溜った垢を落すと同様、体内に溜った垢を落すのである。勿論皮膚は手で洗えるが、腹の中はそうはゆかないから、自然は風邪という体内入浴法で洗って呉れるのである。之を考えてみれば実に造物主は巧く造って呉れたもので、全く風邪様々である。だから人間は出来るだけ風邪を引くのが天理に適っているので、風邪こそ第一の健康法であると言っていい。而も之で治った以上、真の健康者となるから、結核感染の憂いなどは絶対ないのである。

 右の如き自然治癒によれば、それだけ毒が減るから、風邪引く毎に軽く済むようになり、遂には全く引かなくなる。こうなった健康者こそ、通勤者、通学者は無休となり、如何なる階級の人も無病息災、年中無事で働かれ、日々愉快に仕事が出来、家族一同も病気の心配がなくなるから、之が本当の安心立命の境地である。そうして家庭の集合体が社会である以上、ここに天国世界は実現するのである。処が今一つ知らねばならない事は、医療によって病気の治る場合もあるにはあるが、其理由には二つある。一は薬剤其他の方法を以て毒素を極力固めるので治ったようにみえるが、真の全治ではないから、何れは必ず再発する。併しそれを知らない為、医療で治ったものと思うのである。今一つは医療で固めようとしても、浄化力旺盛な人は固まらないで、自然に少しづつ排除されて治る事があるが、之は真の治り方であるから再発はしないが、こういう人は滅多にない。併し最初から医療を受けず、自然に放っておけば、一層早く治るのである。

 この意味を今一層徹底してみるとこういう事になる。それは病気の苦痛のある間は浄化が行われているのだから、毒は減りつつある訳である。だがそれを知らない為と苦痛の我慢が辛い為とで、一時でも楽になりたいから薬を用いるのだが、恰度之は借金を返すのは辛いから、一時延期するようなもので、日の経つに従い利子も溜り、再び借金の請求が来る。又延期をするというように、段々元利が増え、請求も厳しくなり、遂に延期が利かなく破産するのと同様である。ではどうすればいいかというと、最初の時に苦痛を我慢すればいいので、そうすれば苦痛は一時的で、順調に毒素は減ってゆくから、左程長く続くものではない。急性病ならまず二、三日で済むと思えばよい。それ以外確実有効な方法としては本教浄霊のみである。

 又結核の間接的原因としての肋間神経痛であるが、この原因は意外な処にある。それは首から上の病気で手術をする場合、使用する消毒薬の為が多いのである。しかし医療は消毒薬は不可欠のものとしているが、この薬毒こそ特に恐るべきもので、この毒分は非常に強烈であると共に、筋肉から直接滲透するから量も多く、それが下降して肋骨部に固結するので、尚下降して下半身に及んで、種々の病原となる事もある。而もこの毒性は執拗で激痛があり、治るにも長期間を要するもので、この消毒薬の害が判っただけでも、如何に多くの人が救われるかを、私は常に思っている。

 次に医学の原理であるが、実は医学には原理がないと言ったら驚くであろうが、真に原理が分っているとしたら、動物実験の必要はない訳で、何を好んでモルモットや二十日鼠など、多数の殺生をしなければならないかである。彼の駆黴くばい薬六百六号にしろ、この薬は六百六回の実験を経て、漸く完成したというのであるから、之だけにみても原理不明をよく物語っている。全く現在医学は原理ならざるものを、原理と錯覚しているにすぎないのである。

 元来病気なるものは、人体に現われたる現象であって、実体ではない事で、この区別を医学は知らないのである。何よりも病気の種類が多いという事は、現われたる部分が多いからで、其異いさが種々の病名となり、医療も夫々異それぞれちがうのである。

 処が吾々の方では、凡ゆる病原は一つなりとしている。この証左として本教の療法を見れば分るが、如何なる種類の病気でも、浄霊一本で治して了うのである。処が医学で唱える病理というのは、実は機械的測定の結果を基準とした推理臆測でしかないので、何よりも根本原理が分っているとすれば、其原理通りに治療を行えばそれで治る筈で、敢て動物実験などの必要はない筈である。従ってこの事だけでも私は全世界の医学者に分らせたなら、現代医学は科学的ではなく、推理、機械、実験の三者による苦痛解消手段でしかない事に目醒めると共に、既成医学は揚棄せざるを得なくなり、ここに医学の再出発となって、真の医学が生れるのである。

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