仏教

栄光

絶対力(栄光139号 昭和27年1月16日)

抑々そもそも宇宙に於ける森羅万象の活動の源泉は、言う迄もなく神の力である。一切の生成流転も力の現われであり、万有を動かすのも、静止させるのも勿論力である。人間始め凡ゆる動物から、黴菌に至る迄力によって生れ、力によって死滅する。要するに力こそ無限絶対なる支配者である
御垂示録4号

*先祖供養/宗旨(御垂示録4号 昭和26年11月1日⑩)

要するに、救われても居所がないから、その居所を作ってやるんですね。
御教え集4号

御教え*後醍醐天皇(御教え集4号昭和26年11月1日⑤)

大体、禅はバラモンから来るんです。名誉とか、天皇とか言う位は、信仰に徹底すればなくしなければならない。取ってしまわなければならない。だから、一生懸命になればなる程、天皇の位に止どまる事ができなくなる。
第七篇 『基仏と観音教』

 八、密教の興起以後 自観叢書第7篇『基仏と観音教』

 大乗仏教の発達が既にその絶頂に達してしまい、そして早くも全盛期を通り越してやや下り坂になった頃に、従来の全仏教を総括して、これに外界のバラモン教の信仰を考慮しながら新たに組織され、また提唱されるようになったものが即ちここに言う密教
第七篇 『基仏と観音教』

 七、大乗仏教の全盛時代 自観叢書第7篇『基仏と観音教』

大乗仏教の爛熟期としてその黄金時代を現出しておりますのは、インドではハルシャ王時代、中国では高宗の時代、朝鮮では新羅統一時代の初期、日本では天平時代を含む西暦紀元後第七世紀をもってその絶頂とすることができる
第七篇 『基仏と観音教』

六、初期小乗仏教時代 自観叢書第7篇『基仏と観音教』

アショーカ王が世に出てから仏教に帰依して大いにその宣教に努めた結果として、仏教はインドの内外に伝播してゆきました。
第七篇 『基仏と観音教』

五、釈迦の生誕と仏教の発展 自観叢書第7篇『基仏と観音教』

釈迦の唱道した仏教はそうではありませんでした。それが持っていたところの普遍的な性質のために、いかなる国土にも伝播することが出来ましたし、またいかなる国民もこれを信仰することが可能だった
第七篇 『基仏と観音教』

自観叢書第7篇『基仏と観音教』「序文」昭和24(1949)年10月25日発行

 基仏の二大宗教を通じて本教を観る時、本教と時代との重要意味も判ると共に、真のその価値を見出し得るであろう。
天国の福音

神仏はあるか (天国の福音 昭和二十二年二月五日)

私がこの偉大なる医術を発見し得たという事は、霊の実在を知り得た事がその動機である。即ち霊を治療する事によって体の病気が治るという原理であるがこれは、将来の文化に対する一大示唆と観ねばなるまい。実に科学の一大革命である
大光明世界の建設

大光明世界の建設 暗中模索(病貧争絶無の世界を造る観音運動とは何? 昭和十年九月十五日)

故に学者も、政治家も、教育家も、商人も農民も、凡ゆる大衆がみて以て、簡明直裁に、天地の真理を把握して、些かの迷いも生じ得ないという経典こそ、真の救世的、大威力を有(も)ったものである。
大光明世界の建設

大光明世界の建設 三尊の弥陀(病貧争絶無の世界を造る観音運動とは何? 昭和十年九月十五日)

古来、三尊の弥陀と謂い、三弥勒と言い三位一体と言う言葉がある。之は、仏的に謂えば観音、阿弥陀、釈迦の三尊者であって判り易く説明する上に、諸種の事物に当て嵌めて、左の如く、分類してみる。
メシヤ講座

[メシヤ講座] 仏滅というのは、仏が滅びるという事ではなくて、元の御位に戻られるということ 2016年4月②(私達の学び目からウロコの内容より)

楳木代表しかも『之は、非常に重大な意義があり、勿論(もちろん)神の深き御旨(おぼしめし)に由(よ)るのであって、人間の意図でない事は今更言うまでもない、何時(いつ)も吾等(われら)が唱える処の、霊界に於(お)ける夜昼転換の時期に愈(いよい)...
御垂示録2号 

※邪神の方で一番恐いのは神様 御垂示録2号② 昭和二十六年九月一日

つまり邪神の方で一番恐いのは神様の方だからね。どうしても神様はないと言う無神論を植え付けるのが一番の目的なんです。そこで、無神論と言うものを人類に――一生懸命に植え付ける為に二千年もかかつているんです。つまり物質ですね。病気を治せると言う処を見せ様と思つたんです
信仰雑話

神と仏 (信仰雑話 昭和二十四年一月二十五日)

或日釈尊は憂欝に堪えぬ御様子なので、弟子の一人が心配のあまり御質ねした。処が釈尊は『実は儂(ワシ)が之程苦心して説いた此仏法も、何れは滅する時が来る事が判 ったので失望したのである』と申された。
信仰雑話

大乗と小乗 (信仰雑話 昭和二十四年一月二十五日)

最後は経緯を結ぶ、即ち十字型とならなければならない。此意味に於て時所位に応じ経ともなり、緯ともなるというように、千変万化、応現自在の活動こそ真理であって、此十字型の活動が観音行の本義である。昔から観世音菩薩は男に非ず女に非ず、男であり女であるという事や、聖観音が・・
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『文明の創造』宗教篇「仏滅と五六七の世」 (昭和二十七年)

一切の欲望は結局一時的煩悩にしか過ぎないのだから、諦める事だ。諦め切って了えば、真の安心立命を得られるのだと説かれたのであって、之が仏教の真髄であるとしたら全く夜の世界の姿をよく物語っている。此意味に於て万事は昼の世界迄の運命でしかない事を、遣憾なく示されている。