『阿呆文学』 枝葉末節文化  其一 (光明世界創刊号 昭和十年二月四日)

  道は単一無雑という言葉が御座るが、其の通りで、決して複雑多岐に渉るものでは御座らぬ。

  複雑多岐に渉れば渉る程真理と言う奴、影も形も見えなくなるんで御座るから不思議で御座る。彼の医学を御覧(ごろう)じろ。天から授った、此の眼玉では何も無いと思う空気にも、一ミリ四方何億万というバクテリヤがうようよ居るという事が判る程に、顕微鏡的に進歩したんで御座るから、四百四病(しひゃくしびょう)を治すなんか屁の河童でありそうなものだが、左(さ)に非ざる所が不思議千万では御座らぬか。それで近頃阿呆、熟々(つくづく)考えたんで御座る。其の結果、はたと膝を打ったんで御座る。ナールホド余り枝葉末節(しようまっせつ)文化の所へ来たので、肝腎な病源の方が千里も後に取残されて、欠伸(あくび) をしているんで御座る。

  それから又一つ判った事が御座る。阿呆の曽爺(ひいじい)さんの時代だから先ず天保以前頃と思えば間違いがない。其の時分には病人が少くて、流石の薮井竹庵(やぶいちくあん)も飯が食えず、赤や紫の女のような羽織を着て、権門富家へ媚(こ) び諂(へつら) い、漸く鼻の下を塞げたという事程、病人が少なかったので御座るから意外では御座らぬか。 然るに何ぞや一時間五百粁(キロ)の速さで、人間様が空を飛ぶという豪勢な御時勢に之は又何ぞや。地上は病人がうようよ、病院が満員、新聞は売薬の広告がなければ経済が持てないという医薬万能の有様。どう考えても辻褄が合わないので御座る。併し茲(ここ)で頭のいゝ読者なら、枝葉末節文化の誤謬が、ピンと脳味噌に来る筈と思うので御座るが、如何で御座る。

  其処(そこ)で、阿呆、緊褌一番(きんこんいちばん)、毛唐が製造した此の枝葉末節医学を此の辺でガンと眼を醒させ、どしどし病人が減って行く医術と言ってもゴロゴロ死んで毎晩病院の裏口から仏様を運び出すんでは御座らぬから安心を願っておいて、実は病気の方が治って、病人が減るというので御座る。ても扨(さ)ても、不思議な医術が出来たものだと吃驚(びっくり)するで御座ろうが、まあまあ遽(あわ)てないで能(よ)く聴いて下され。之こそ三千年間見た事も聞いた事も御座らぬ之が正真正銘の日本医術で御座る。今迄のは支那や西洋からの借物で、日本医術の生れる迄の其間の謂(い)わば間に合せ代物、辻褄の合わぬ借着衣裳で御座ったので御座る。それで万事お判りになったで御座ろうが何と結構な事になったでは御座らぬか。

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