神様と私との関係 (地上天国57号 昭和二十九年二月二十五日)

   これは昔からよくある事だが、宗教の教祖や自称生神様などは、よく神様に伺いを立てるとか、神様の御託宣を仰ぐとかいって神憑りになり、自問自答をしたり、自動書記や心に浮かぶ等の行り方であって、言わば間接的方法である。処が昔から神との交通はこの方法より外にないのは衆知の通りである。処が私という者は全然異っていて、未だ嘗て世界に例のない存在であるから、一通りかく必要があると思うのである。

 私も以前は神との交霊的方法によって御蔭を得た時代もあったが、これは重大な事柄に限ったのである。その場合色々面白い事があった。例えば心配事がある時など伺いを立てると、神様は何事も言われず、只呵呵大笑(カカタイショウ)されるのみで、私はハハア心配するなとの事と解したのである。処が日の経つに従い果してその通りであったので、今度は私の方も呵々大笑したので、こんな事も度々あった。そうして私が大本教信者であった頃は、国常立尊という神様が時折お憑りになったが、その神様は崇高な威厳と厳しい霊感のあった事は今でも覚えている。併し一番憑られたのは何といっても観音様で、絶え間なしという位であった。勿論その時の気持は、何ともいえない和(ナゴ)やかさで、大慈大悲の御心が溢れていたのである。

 ここで一つの面白い事は、確か以前も少しかいた事があるが、伊都能売金龍と申す神様が憑られた事があった。その龍神は数千年間琵琶湖に住まわれ、時を待たれていたのが、愈々時節到来因縁によって私に憑依されたのである。この神様は八大龍王の頭領である九頭龍といって、俗間(ゾクセ)で九頭龍権現のお名前で祀られているのがこの神様である。何しろ長い間龍神であられたが為最初憑られた時は眼光爛々と輝き、口は耳まで裂け、額の両側から大きな角が隆起し、背の上部、肩と肩との真中辺が角型に隆起し、物凄い唸り声を発するので、私は愕然(ガクゼン)としたのである。その頃の私は霊的知識がまだ余りないので、何が何だかサッパリ分らなかったが、その後間もなく龍神という事が判ると共に、暫くして話をされるようになった。その時に話された事は“吾は長い間龍神になっていた為、人間の言葉が使えなかった処、おかげで漸く使えるようになった”と喜ばれ、それから色々な話をされたが、その中で随分神秘重大な事を教えられ私は驚きと共に嬉しさが込み上げた事も度々あったのである。

 まだ色々あるので何れはかくが、ここで言いたい事は現在の私である。それは静岡事件の際留置所の中で、頗る神秘な神業が行われた事はいつか話した事があるが、その時私の体内に入られたのが最高最貴の○○○○○の神様であって、出所早々散花結実の書を千枚かいて主なる信者に頒ち与えたのも、その時の経綸によったのである。

 処がその時から後の私は、以前のように神様に伺う事は必要がない事になったのである。というのは神霊は私の体内に在す以上、以前のように神と人との隔てが撤去され、神人合一の境地になったからである。つまり神即人である以上、私の行う事は神直接であるから、私の思うままを行ればいい事になったのである。

 このような訳を知ってから分った事は、神様に伺うというのは、最初にかいた通りこれまでの行り方であって、間接的である。処が今度のようになった私としては、未だ嘗て世界に例のない事は勿論で、釈迦、キリスト、マホメットの三大聖者は判らないが、恐らく私程の神との直接的ではなかったと思うのである。何故なれば今日残されている幾多の功績を見ても分るのである。

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