[日々雑感] 岡田茂吉教祖 略年譜と御事跡 (御生誕〜終戦まで)

こんにちは
岡田茂吉教祖の略年譜を日々雑感でアップします。この略年譜はどなたが作られたのかはっきりわからないという事と、ちょっとコアな感じなので、こちらのコーナーで2回に分けてアップすることにしました。
 
 ホームページでは戦前のみ教えもたくさんアップしていますが、その当時の様子をご存じの方は少ないのではないでしょうか?参考になればと思いました。

明治15年12月23日

東京都台東区橋場にて生誕。本名 岡田茂吉。

10年後の1892年旧1.1 出口ナオ刀自突然神懸りとなり 『三千世界一度に開く梅の花、艮(うしとら)の金神の世になりたぞよ。梅で開いて松でおさめる神国の世になりたぞよ。・・・神が表にあらわれて、三千世界の立替立直しをいたすぞよ。用意をなされよ。この世はさっぱり新つにいたしてしまうぞよ。三千世界の大せんたく、大そうじをいたして、・・・・』 と大音声で大本教の開教宣言をされる。

艮の金神とは国常立尊(クニトコタチノミコト)の事で絶対善の神様で毛筋の横幅も悪を許さないという厳しさゆえ神様のクーデターにあい失脚され、うしとら=東北の方角に押し込め奉られた。世に言う鬼門とはこの神様がおられる方角である。それが時期が来て再び世に出られる時が来た。夜の世界は曲神の支配する世界だったという事である。

大正9年6月      

大本教に入信。38歳。大本での活躍によりたちまち支部となるなか、社運挽回努力するも関東大震災(1923年)で再び大打撃を受ける。然し震災は予見し難は逃れる。知人にも「東京は火の海になる」と言い神様との渾名がつけられる。

昭和1年12月     

神懸りとなり神示を受ける。この時仏教でいう如意宝殊、神道でいう麻邇の玉が腹中に入られる。これにより見真実の境地に至り自己の使命を自覚する。44歳。

始終観音様が付き添われ見守り、自由自在に操られる。大本での「玉の井開き(この玉を本部にお迎えする行事)」でも偶然参加する事になり、何故か出口聖師の隣室に泊められた夜、聖師は「生まれた」と叫ぶ。神様の使命を帯びた自分が生まれた事を感じる。

昭和3年2月4日    

事業を番頭に任せ、救いの神業に入る。46歳。

昭和4年4月17日

時期至り、金龍神琵琶湖より昇天されるや赤龍(サタン)襲い掛かりて大暴風となる。出口王仁三郎聖師この数日前、湖畔の料亭で「怒濤冲天」の書を揮毫する。因みに金龍神は観音様の守護神であり、その守護の為に舞い上がられた。この一ヵ月後の正午頃自宅上空での大暴風雷鳴で金龍神が守護神となられた事を感得す。

昭和5年12月     

九頭龍権現(金龍神の別称)のお計らいでの富士登山による木乃花咲爺姫(浅間神社の奥宮久須志神社の御祭神で観世音菩薩の御神名)の御出現、其の他六月一日からの数々の奇瑞は観世音菩薩が此土に天降らせ給いて御誕生された事を確信された。

昭和6年6月15日   

霊界の夜昼転換を感得し(5月に啓示あり)千葉県鋸山の名刹乾坤山日本寺で神事を行う。因みに乾坤とは天地の意。49歳。これより遡る事678年前の1253年外房の清澄山旭が森山頂にて日蓮上人が開教宣言されたのが「東方の光」の最初の一石。霊的にみるとそれまで闇の世界であった霊界の東端、今や太陽の昇らんする直前、微かな一閃光であった。

真偽の程は定かではないが「我死してより650年後臨滅度時の鐘を撞け」との日蓮の遺言があり池上本門寺で1930年(日蓮1282年入滅)に撞いたという話。とすれば夜昼転換によって仏界が神界に変わる合図としてはぴったり当て嵌まる。之の年9月満州事変。

昭和7年2月    

大本の青年に赤龍懸かり刺客となるも聖師より 「岡田さんは特別な人」 と諭され事なきを得る。当時大本では病を癒す「おひねり」を作るのは三代教主の専権事項であり、それを一信者の岡田さんが作るのは許すわけにいかぬという事であった。之より先立つ事数年前に出口聖師より「あなたは今後病気治しをすれば何程でも治す事が出来る。大いにやりなさい」 と言われてはいたのである。又、紅卍(マンジ)会の秘法「フーチ」によっても「浄」の字が出されたにみても、天の意思であった。今日多くの人が浄霊という語を使用するようになったが、フーチによって岡田茂吉に与えられた浄が浄霊に転用されたのが始まりである。

昭和9年5月1日  

「岡田式神霊指圧療法」と名乗る。52歳。

同年9月15日     

大本教を退会。神示や啓示を受ける身にありながら、大本に「東京に岡田あり」と重んじられ大森別院の主宰者として、又大本の宣伝使として完璧に任務を全うされた事は類稀な事であった。

昭和10年1月1日   

「大日本観音会」として発会。

同年10月1日    

東京都世田谷上野毛に邸宅を入手し本部とする。(玉川郷宝山荘)ここで自然農法の研究にとりかかられる。肥料が土を汚し害虫を発生させ農薬で殺すという悪循環をつくり然も食味を不味くし減産の原因となり人体にも有害である事を説かれ、無肥料自然農法を確立される。作物に於ける肥料、農薬は人体に於ける栄養剤や薬物と同じであるばかりでなく土そのものの働きをも阻害する。結果的には自然を破壊し採れた物は危険で口に出来ないものとなる。その普及は戦後に本格化する。今日の有機農業の流れの始まりは既にこの時にあった。

同年12月8日      

大本教不敬罪で大弾圧を受ける。これより6年後に太平洋戦争に入り徹底的に日本は壊滅されるその型となった。

昭和11年5月15日   

弾圧の先手を打って「大日本観音会」を解散し「大日本健康協会」を結成すれど、治療行為も禁止される。当時当局からの干渉は凄まじいものがあった。刑事、特高が付きまとい検挙、拘留を幾度となく繰り返しては禁止、解除を重ねた。然も官憲の横暴は凄まじく調書に都合が悪くなると直ぐに暴行、拷問が加えられた。然し教線が止まる事はなかった。之の年2.26事件。54歳。

同年9月 

鉱山経営に乗り出される。山形、岐阜、群馬、秋田、宮城など。教団経営、官憲の眼をそらす為、職を作り出す為等であったが採算的には必ずしも成功とは言えず、経綸上の深い意味があったことは確かであった。教祖昇天前迄続く。    

昭和12年10月22日 

軍上層部の働きかけにより治療再開。政界では大臣、軍上層部、皇族にも理解者はいた。後に特攻隊生みの親の大西滝次郎中将も理解を示し霞ヶ浦航空隊に治療師を招聘したりもした。又要注意人物とされ絶えず刑事の尾行、監視を受ける教祖をかばう為に熱海駅頭に軍楽隊を整列させ、軍艦マーチを演奏させて教祖に面会に行く少将もいたりしたのであった。

昭和15年12月1日  

医師法違反の容疑をかけられ二度目の廃業させられる。 58歳。以後第一線の救いは弟子たちに任せ神秘な神業に入られる。然し廃業届けを出したにも拘らず、上層階級の人々は警視庁に治療許可を求めてまで治療を受けに行くので当局も困惑し翌年には「療術行為届」を出すように伝えてきた。

昭和16年2月5日   

療術行為再開。然し教祖は療術行為から身を引かれ講習等 も主な弟子6名が行うようになる。それぞれが「岡田式」を各自の名前に置き換えた。之が教会制の原点になり其の中に「渋井式指圧浄化療法」の看板を掲げた渋井総斎は「大内会」と称する懇親奉仕の会を組織し、それが「日の出会」と改名され、二年後の昭和18年には「五六七(ミロク)会」と改称され戦時下において布教は軌道に乗り始め、戦後急速に大発展を成す。戦時にあっては空襲下にあっても、戦後は窓から出入りする程の超満員列車の状況下にあっても教祖への思慕は衰える事はなかった。 12月8日、太平洋戦争。59歳。

昭和17年9月28日   

「明日の医術」出版。60歳。2年後発行禁止。生涯に5500の和歌を詠み、口述論文2000篇、観音、如来像7000体、書はお守りを入れ100万体にのぼる。

昭和19年5月5日  

箱根強羅「神山荘」へ移転。

同年10月5日    

熱海「東山荘」へ移転。

     (終戦〜御昇天)へ続く      八尾屋

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