速度の芸術とピカソについて(栄光140昭27年1月23日)

 そもそも、東西芸術を比較考察してみると、西洋は動的であり、東洋は静的である事がよく分る。譬えば音楽にしろ、西洋は飽くまで動的で速度的であり、聴く者をして勇躍爽快、自からジッとしては居れないようになるが、そこへゆくと東洋の方は、静かに落着いた気持になる。舞踊にしてもそうで、日本のそれは踊るよりも、舞うという方で、どこ迄も静である。それに引き換え西洋の方は動的で其極端になったのが彼のジャズであろう。

 処が絵画にしても其通りで、只音楽舞踊と本質的に異うのは、絵画は動を表現しようとしても、静的手法である以上困難で、そこに無理が生ずる。しかし何とかしてそれを破って新しい傾向を作りたいという意欲から生れたのが今日の洋画であってみれば、之迄のように物体の静止を凝乎じっと見たままか、でなければ動いている物でも、画家の方で静的に描写するかで、其観念が真実でないとしてアノ奇怪な絵画が生れたのであって、其巨匠がピカソという訳である。

 この意味を知って、彼等の絵画を観る時、大体分るであろう。即ち動いている物体から受ける瞬間の感覚を表現するので、この場合前記の如く物体の動きを客観する場合と、物体は静止していても、観る画家自体が動く瞬間の感覚との二様である。という訳だから観者みるものも之を正確に観別けなければならないがそれが仲々難しい。早く言うと相手の動きの速度と、相手の静止を観る画家の動きの速度とである。としたら甚だヤヤッコシイが、何れにせよ速度の感覚と思えばいい。だから顔が重なり合ったり、歪んだり、顔が小さくて身体が馬鹿に大きく釣合いがとれなかったりするのである。又幾何学的線の交錯なども、建築物に対する速度の感覚であり、同様取り止めのない色彩の乱舞なども、花畑とか女性の服装などの瞬間的感覚である。故にこの事を心得て観れば、或程度は分らない事もないが、遠慮なく言えば一々描いた時の説明書を付けた方がよいと思う。そうでないと観る者はいたずらに頭脳を困惑させられるばかりで、本来楽しみたいから展覧会へ行くので、それが苦しむとしたら大いに考えざるを得ないであろう。

 之だけけば大体は判ったであろうが、ここで画家に対し、観者としての申分がある。今吾々が画家にむかうや、直ぐに何の絵かが分ってこそ、作者の意図が掴み得られ楽しめるので、それが芸術の生命であらねばならないが、ピカソ的絵は画面に対うや、作者は一体何を狙ったものか、何を描こうとしたのか、という二十の扉じゃないが、動物か植物か鉱物かを考えなくてはならない。それが為苦しい時間を要する。之では芸術ではなく、一種の判じ物でしかあるまい。幸いアナ君から御名答の言葉を頂ければいいが、そういう人は恐らく何人もないであろう。私などは数枚も観ている内に頭痛を覚えるので、全部を観たらどうなるであろうかと、恐ろしい気がする。としたら極端な言い方かも知れないが、見物人は一種の被害者である。成程画家自身はいい気持になって、主観の押売をするのだが、買わされる見物人こそいいつらの皮である。哀れなる者よ、汝の名は展覧会の見物人也と言いたい位である。之というのも、現代美術家の考え方である。彼等は客観を無視し、私がいつも曰う主観の幽霊となるのを誇りとしている。というように以上私は随分思い切ってかいたが、之も私としての個性の押売かも知れないし、押売に対する代償かも知れまい。

 そこで私は絵画に対する私の意見を少し書かして貰うが、一体絵画とは一般美術の基本的なものに違いないが、この重要性をつものとしたら、端的に美の感覚が感受されるものでなくてはならない。即ち好い作品に対った場合、心ゆくばかり美に魅惑され陶酔されてこそ、絵画の真価であって優秀なる文化財である。としたら展覧会とはこの為の存在でなくて何であろう。今一つ付け加えたい事は、古今東西を問わず、絵画其ものの存在意義であって、特殊な眼識者のみが鑑賞出来るものであっては本当ではない。誰にも楽しめるという普遍性こそ芸術の生命である。としたら今の洋画の如き独りよがり的であってはならない事は言う迄もあるまい。只いたずらなる流行を追うジャズ音楽にするとしたら、早晩自滅あるのみであろう。勿論美味うまい物を食わすべきで、それが画家としての良心である。        (自観)

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