[メシヤ講座] 戦後GHQから信仰を問われ 特選集平成24年3月分① (私達の学び目からウロコの内容より)

<前略>

しかし、御教えに照らして起きる事象を考察する心構えを持っていれば・・・、という思いが募るところです。御法難や離脱教団発生の真因を知るにつけ、「御教えに照らす思考形態を持ち、賢者たることを目指さねばならない」と呼びかけ続ける必要性を痛切に感じます。

こうして布教師の信仰姿勢を問う時に、学生時代まで所属していた別府亀川布教所(当時)責任者Y氏の御在世時の体験談を想い出すところです。終戦間もない頃の宮崎県での布教談でした。マッカーサー司令部(GHQ)の下で米、砂糖はもとより、化学肥料に至るまで全て配給制度であった時代の逸話です。

昭和24年(1949)頃、現在の自然農法は「無肥料栽培」と称され、実施農家も徐々に増えつつあったそうですが、宮崎県下で無肥料栽培実施者が進駐軍の呼び出しを受け、当時支部長であったY氏も召喚されるという事件があったのです。

日本の生殺与奪の権限を握るGHQ下にある進駐軍の取り調べというので、信者さん方には極度の緊張が走り、“「お光さま」や「無肥料栽培」などインチキだ”とする批判者側は「それ見たことか」と勢い付いたと言います。「今に、マッカーサーが無肥料栽培などという非科学的農法は禁止してしまうにちがいない」などと噂が噂を呼んでいた最中、“厳重な尋問を受け拘留されるかもしれない”と固唾(かたず)を飲んで信者さん方は心配していたそうです。

Y氏は「日本に信教の自由を保証してくれたのはマッカーサー元帥です。その信仰と一体的な無肥料栽培を取締る訳がない。どういう理由で取り調べがあるのか? 」と、逆に問い質(ただ)すつもりでいたそうです。すると係の将校から全く意外な質問を受けたそうなのです。「無肥料でやるというのは、折角GHQの好意によって配給した化学肥料をヤミで横流しして、高く売っているのではないか?」とのことだったのです。

Y氏は驚くと同時に、「我々は神に仕える信仰者である以上、不正なことをして金儲けするなど、とんでもない邪推です。」と断言。そして、当時の信者さん方が日々いただいている奇蹟談を話し、無肥料栽培の原理について説明したところ、その将校は「それでは、信者は全員無肥料栽培を実施しているのだろうね」と聞かれるので、「全体からいえば実施者はまだほんのわずかに過ぎません」と、ありのままに答えると、将校は「それはおかしい。一旦神の道に入った以上、その教団の教祖様の教えは、皆守り実行してこそ信仰者ではないのか?肥料の横流しをしていないのはよくわかったから君は帰ってよいが、入信しながら教祖の教えを実行しない人達がいるというのは、理解できない。神の加護をもらっても、教えを守らないのは神を利用することで、キリスト教から言えば、それは大きな罪を作っていることになる」と窘(たしな)められたそうです。

進駐軍将校の言葉は、まさに脳天一撃の衝撃であったそうです。聞いた信者さん方も「なるほど、その通りだ。我々は甘え過ぎていた。そのアメリカの将校さんに、信仰の心構えを教えられて恥かしいことだ。支部長先生、ご苦労というより、大変情けない思いをさせてしまって申し訳ありません。明主様(メシヤ様)からお蔭を頂戴したからには、御教え通りに実際に行ってまいります」と大いに感銘を受けたようです。

化学肥料横流しというあらぬ嫌疑から、進駐軍に呼び出しをされたことが結果として、「信仰、如何にあるべきか」を米軍から教えられ、奮い立ち、凄い勢いで発展したそうです。

この逸話にあるように、キリスト教徒から諭された「大きな罪を作っていることになる」は、そのまま前回の話にあてはまります。クドクドと、多くを語る必要はないと思います。

それまでの時代は創唱宗教の特性を日本人は知らないところがあり、神道も軍部に利用されていた面があるので、「神の加護をもらっても、教えを守らないのは神を利用することで、キリスト教から言えば、それは大きな罪を作っていることになる」という概念を持ち合わせてはいなかったかもしれません。しかし、このことが信仰姿勢で最も重要なことであることは言うまでもありません。信仰生活とは御教えの実践にあるのです。その御教えを都合の良いように曲げて取り次ぐというようなことがあってはならないのです。

その意味で貴重な教訓であります。

教団改革のために東奔西走する原動力となる異変

ところが、この信仰一途なY氏も、教団紛争で東方之光教団の前身である再建派に属したため、私は恩師と思えばこそ、真相を伝えに訪れたことがあります。その時の反応は「定年まで問題を起こさずに勤め上げることが大事だよ」という諭すような話しぶりでした。まさにサラリーマン化した言葉でした。

私は、“進駐軍と渡り合った篤き信仰情熱はどこに行ったのか”と、途方に暮れてしまいました。しかしながら、これが「一元化」の後遺症なのだろう、と自らを納得させるしかありませんでした。そして、”正常化委員会の言うことも一理ある”という情けない感情が込み上げてきました。そうは言っても、正常化委員会の暴挙は御教えに照らせば尚のこと、人道的にも許されざることであり、“何が何でも教団改革を進めなくてはならない”と意を決して、夜道をトボトボと帰途に就いたことを鮮明に覚えています。

そして、サラリーマン化した専従者には期待できない状況である以上、メシヤ様の御教えを価値観の根底に置いて生活している人を発掘するしかない、そのような人が一人でもいれば、専従者であろうと一信者であろうと“地の果てまでも訪ねて真相を伝えよう”という思いが込み上げてきたのでした。Y氏の“異変”を目の当たりにして、そうした強固な決心をするに至ったのです。それが教団改革のために全国を東奔西走する原動力ともなりました。

しかも、動く毎に、救い主の御存在を明確に認識する働きかけと、その取り組みの根幹をなす全御教えの公開が不可欠であることを痛感させられました。現在のメシヤ教の取り組みは、こうした教団改革の動きの延長線上に生まれてきたと申しても過言ではありません。

前回、キリスト教系の研究書を引き合いに出して御教えの重要性を取り上げましたが、今回はキリスト教徒の信仰心情を基にあるべき信仰姿勢を見つめていただきたい、と願っております。

<学び>
歴史の古いキリスト教よりも、新しいはずの世界救世教の方が信仰が形骸化してしまっているといえるのかもしれない・・・。

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