あんまり結核の話ばかりも、気持ちの良い話ではないからね。この間、ピカソの批判はしましたが、あれについて、ああ言った変な絵ですね。ピカソと言う人でも、別に精神病ではないんだから、何かああ言う絵を画くには理屈がなくてはならないですね。その理屈はどう言う訳かと言う事を話して見ようと思う。この根本は、西洋文明と東洋文明の異い差です。その為なんです。元々東洋文明は静なんです。西洋文明は動――動くんですね。そこで、これは芸術によく現われているんです。音楽にしろ、東洋の方は静ですから、実に静かですね。聞いていて、気が落ち着くんですね。西洋の方は動ですから、実に爽快で、身体が自然に踊る様になります。じっとしていない。踊る様になります。これが極端になったのがジャズです。これは動的の極致になった訳ですね。ですから、あの位身体の動くのはないですね。最近のは、またもっと動く様ですね。この間映画で見ましたが、アメリカのジャズなんて言うのは、音楽のリズムに合わして、踊るより――踊り方が細かいですね。一つのサーカス的の――芸みたいですね。あれはいよいよ動の極致になって来たんですね。そこで、踊り――舞踊でも、日本の方は、舞うですね。静かに落着く様な訳ですがね。西洋の方は、今言ったジャズ的になる。これは、静と動の異い差ですね。で、これは日本としても、今の文化の形体から言っても、その静か――静は守っている訳にはいかない。やはりある程度動にならなければならない。服装から言っても、和服と言うのは静の服装ですから、これは活動のできない服装になってますから、どこ迄も――静かに歩くとか、立ったり座ったりする様にできてますからね。西洋の服装と言うのは、動的で――活動的だから仕方がないですね。そこで、之からは静と動と偏らないものができていくんですね。やはり一つの結びですよ。
《お伺い》「結び」についても
【御教え】この間ダレス国務次官補ですね――あの人が、この間――何処かで講演しましたが――その時に、之からは東洋の代表者としては日本だ。西洋の代表者としてはアメリカだ。だから、アメリカと日本を結んで、初めて平和的世界ができるんだ。と言う様に信じている。と言う事を言われましたが、これは私が以前に言った、東洋の経が日本で、西洋の緯がアメリカだ。いずれは結ばなければならない。と言うのと良く合っているんで、私は面白いと思った。そんな訳で、今言う芸術もやはり結ぶ訳ですから、それで良いんですがね。その動ですね。動の極致になった、いわゆるジャズですね。それがピカソの絵なんです。と言うのはピカソの絵と言うのは動くところを画くんです。今迄の絵と言うのは、静止しているところを画いている。だからはっきりしている。それを、動く処を画いてあるんで、その説明をすると、どうやら解る。例えて見れば、人間でも横を向いたところを画く。すると半分が正面で、半分が横でしょう。だから、かためて、鼻が二つある様になる。またある時は、顔が重なり合う。それから建物、汽車や電車あるいは自動車を見た場合に、こう(線の様に)なる。それを画いた。だから線ばかりで幾何学的に画く事になる。こっちに人間がいるかと思うと、あっちに家の壊れた様な物がある。処が、実際にそんな動くなら良いが、処がそこに矛盾がある。だからピカソ自身は良いとしても、それを見物する方は災難ですよ。そう言う考えを持って見れば、ある程度解らない事はないですね。処が、絵にしろ凡ゆる美術と言うのは、人間を目によって楽しませるんですから、あれを見て楽しい感じが起るなら良いんですよ。処があれを見て楽しいと思う人はないですよ。どう言う訳で、こう言うのを画くんだろうと考えますからね。考えて解るかと言うと、解らないんですからね。すると、楽しみより苦しみになる。誰も、金を出して苦しみに行く者はない。だから、私はピカソは見なかったんです。この間東京に行って、高島屋でやっていると言うので見たんですが、だからああ言う美術と言うのはなくなってしまうんです。要するに動が極端になった迄なんですから、長く続くものではないんです。芸術にしろ、美術にしろ、楽しめなければならない。楽しんで、良い物でなくてはならない。それによって慰めを得るし、それによって心が向上しなければならない。レベルが高くならなければならない。人間と言うのは、見るもの聞くものによっては、魂が高くなったり低くなったりするんですからね。今言う様に、低くなるものばかりですから、人間の魂が段々低くなって、悪い事をしたりする様な事になる。そこで私は美術館を造ったりして、一つの宗教ですね。魂を救う一つの手段を考えるのです。
私は、博物館の考古学的なものは、一つの参考品としては良いが、美術としては人に見せるものではないですね。一昨日も東京に行って――懇意にしているので、銀座に行ったが、博物館よりも大分出品して、大分見るべき物があった。あれとても、一部は良いが、そうあんまり感心はできない。処がサンフランシスコの博物館で見せました物を見たのですが、仏教芸術が多過ぎたんです。ああ良いとは思いますが、何百年前、鎌倉時代の阿弥陀さんとかお釈迦さんとか――専門家が言ってましたが、そうした人で――博物館に関係した人でさえ、これは阿弥陀さんかお釈迦さんか解らずに、私に聞きました位、あの人達も未だ解ってない。だから、それを見て、聞く様じゃ本当じゃない。むしろ、楽しみより苦しみですね。額に八の字を寄せて――そう言う事が、今多過ぎるんですよ。話は違うが、ラジオでもそうです。今度民間放送ができるんで良いが、ラジオなんか、教育的なんですね。音楽なんかで一番解る。シューベルトは、元――生まれてどんな事をした。何時作曲した。そんな事は要らない。聞いて楽しければ良いんですからね。それを、西洋音楽を日本人に教育し様と言う考え方は――聞く人は災難なんです。朝の一時間は堀内敬三の音楽教育をされる。本人は良い気持ちになってるが、こっちははなはだ迷惑です。美術館もそう言う処がある。そこで、私はなるほど楽しめる。目から――理屈でなく、自然に知らず知らず楽しみながら、魂を高めると言う方針でやるつもりですからね。要するに、美術教育にしろ、一切の何にしろ、そう言う教育が本当です。今迄の教育は間違っているんです。つまり、子供なんかも、もっと愉快に面白く、人格ができると言う訳ですね。話は色んな方に行ったが、ピカソの意味ですね。そう言う事も知って置くと良いんですね。それを真似して、日本なんかでやってますがね。これもしょうがないと思うんですがね。それでピカソがああ言う風になったのは、大体アメリカの金持の影響もあるんです。成り金が、美術館を造って、それを自慢にするんです。成り金がそう言う物を集め様と思っても、東洋の物は集まらない。他で皆んな買っちゃってある。そこで西洋の油絵を買おうと思っても、美術館が買っちゃったりしてないんです。そこで、何か驚く様な物がなくちゃならないと言うので、今迄は油絵と言うのは、昔からの古い絵を見ると解りますが、段々駄目になって、結局において色のある写真だと言う事になって、行詰まっている処に、日本の光琳の影響を受けて、あっちが違っちゃった。写真とは反対の、印象派ができて、後世、感覚派とかできて、実際と離れた絵ができて来た。実際と離れて、離れ過ぎちゃつた訳ですね。それで、動きを画いて見ようと言うヤマですね。その考え方が、非常にアメリカの金持に合っちゃった。それで非常に高くやったんです。そして、古い物を持っている者に、ヘンどんなものだと見せたんです。そこで、人々がピカソは、何万ドルで買ったと――段々せり上げて――すると一般はどうかと言うと、ピカソの絵は一枚何万ドルだ。それじゃ良いに決っていると言うんで有名になった。それが日本に来て、日本は昔から、雷同性があるから、西洋であんなだから良いに決っていると、偉い人が無理に押しつけちゃう。それで一般は、あの人がああ言うんだから、良いに違いないとなったんですね。一つの流行心理と言いますかね。殆んどそれに従っているんですね。私が、この間言って――ぼろくそに言ったのが、『中部日本』に出ていたそうです。私がピカソをぼろくそに言ったと言うのを、何と言いますか――変わっているとでも言うんでしょう。書いた記事は見ませんが、驚いたと言う事は確かです。そんな訳で、何時かは私の言う事が、これが本当だと言う事が解る時期が来ますが、とにかく、私は本当のものを――本当の意味を書くんですから、誰が何と言おうと、そんな事は眼中に置きません。