《お伺い》二ヵ月前から体が悪く、四人の医師にかけて病名は判らず、注射を打ち、近くで浄霊の事を聞き、浄霊を頂いてより少し楽になり、娘が8月23日に入信し一生懸命に御浄霊し、責任教師も毎日ではありませんが、浄霊しており、一時良かったのですが、腹部が膨(は)って以来、反対する親戚の者が医師を連れて来て、診せたそうですが、あとで水を取らなければならないが、取っても命は責任持てないと言ったそうです。9月27日御神体御奉斎。その晩は喜んでおりましたが、29日の午後帰幽し、医師が来て、御神体を焼かなければ診断書を書かないと言うので、申し訳ない事ですが、反対者が焼きました。
《御垂示》神様をお祀りするのが早過ぎるんです。病気が治ってからお祀りするんです。未だ、治るか治らないか判らないうちに、お祀りさせるのは、教会の先生が間違っている。つまり、原則としては病気が治って有難い。だから、今後病気にならない様に、また人を助けたい、と言うのでお祀りするんです。お祀りしたら早く治ると言う考え方は本当じゃない。御神体を治療機械みたいに思ってはね。だからお祀りするのは慎重にしなければならない、と言うんで、神様が焼かしたんです。焼く人が正当なんです。だから、礼に行って良い。
《お伺い》診断書は滞りなく取れました。
《御垂示》それで良かったんです。こう言う事になるんですね。神様をお祀り迄して、助かるかと思ったら死んじゃった。神様は良い加減なものだと、信用を毀(きず)つける。そうすると、結局御神業のお邪魔になる。たまには、早くお祀りしてお蔭を頂く事があるが、それはこう言う風に考える。命に関わりのない病気なら早くても良いが、命に関わるのは絶対に早くしてはいけない。先にもよく話したがね。そう言う事なんです。実はそう言うものなんです。だから命に関わる病気なら、治って之なら安心と言う時にお祀りする。そうすると、親類でも賛成して邪魔しないんですね。もし邪魔するとしたら、先が悪いから、それは神様に、それだけの成敗(せいばい)をされる。
《お伺い》親戚に親子の仲の悪いところがあり、このお救いを話し、御神体奉斎し、その後御参拝に来ませんで、子供が御神体を破いた事がありました。三年程前で御座います。
《御垂示》親父は信仰に入っているんですか。
《お伺い》左様で御座います。
《お伺い》何う言う訳で信仰に入ったんですか。
《お伺い》家庭が仲良くなかったので、それをなくする為に勧めましたが、子供がいたずらした後、お迎えする様にお話しましたら、頂きたいと言うのですが、その時家が納まらなかったので、私の方で奉斎しております。向こうから来るのを待つべきでしょうか。
《御垂示》無論です。最初から無理してお祀りしたんですからね。今言った様に神様を仲直りの道具に使った。本人が信仰に入って、御神書を読んで立派な信仰だ。是非お祀りさせて下さい、と言うのなら良いが、本当に分からないうちに押しつける様にして祀らせたのでは、神様に対して御無礼になる。有難い、是非自分もそう言う神様を拝みたいと言う切なる気持ちでお祀りしてこそ、はじめて神様は――人間と同じですよ――気持ちが良いです。人間だって、あの人に是非来て頂きたい、助けて頂きたいと言う気持ちの所に行った方が良いでしょう。それを、その気持ちがないのに、押し売り的に行っても、先が心から歓迎しないからね、心からでないと、光が強く出ない。お祀りして、人間が本当に敬まって崇(あが)めると、光が強くなる。だから、一家揃って、一番浄い所にお祀りすると、光が違う。それを、人間以下に――人間が上に住んでいたりしては、光が出ないんです。そう言う訳なんです。