信仰は愛なりとは、よく言われる言葉だが単に愛といっても色々ある。正なる愛、邪なる愛、大なる愛、小なる愛というように、多種多様である。此様な訳であるから、信仰者は愛に対しても正しい認識を失ってはならない。
先ず、其例を挙げてみるが、正愛に属するものとしては、夫婦、親子、兄弟等の家庭愛は固(もと)より、友人、親戚、知人等に対する普通人間としての愛は、それが如何程昂まっても別段非難する処はない、問題なのは邪愛である。
邪愛は、説明する迄もないが、右と反対で夫婦の仲は円満を欠き、親子兄弟の間は冷く、友人、親戚等とも仲異(なかたが)いとなり、疎遠勝ちとなったりする等で、之は世間にはあまりに多い話で、邪愛による事もあり、薄愛の為もある。
以上は正愛と邪愛を簡単に類別したのであるが、愛の中で最も批判を要するのは、何と言っても恋愛であろう。之は、以前も説いた事があるが、単に恋愛といってもそこに大いに正邪がある。勿論、純粋なる青年男女が結婚の目的で相愛するのは、正愛であるが世間よくある気紛れな一時的衝動に駆られた、所謂、刹那的、熱病的恋愛は勿論邪恋である。早い話が、凡そ叡智の閃きのないのが邪恋と思えばいい、処が、邪恋が極端に進むと必ずといいたい程悲劇を生む、それは妻あり夫あるに拘わらず、他に恋愛の対象を作るのだから厄介である、暫時(ざんじ)の享楽に耽(ふけ)った結果、一生の破滅的運命に陥ったり、仲には生命を失う者さえあるのだから、斯んな算盤に合わない話はない、最も慎むべきものである。
右は、恋愛の正邪に就て、簡単に批判したのであるが、茲で、最も言いたい事は、愛の大小である。即ち曩に述べた家庭愛や周囲愛は小乗的愛で、利己愛の部に属するが、一般人は此種の人が一番多く、所謂普通の善人型で、無信仰者にもあり、別に非難の点はないが、本当の信仰者となると、全然違うのである。信仰者の愛こそは大乗であって、所謂利他愛である。此大乗愛が最大に拡充されたものが、即ち人類愛であり、世界愛である。
茲で注意すべきは、終戦前までの日本人は真の大乗愛を知らなかった、というのは最も最高のものとされていたのが国家愛であった。国家の為に生命を捧げるのが、人生最大の目標とされていたのは、周知の事実であるが、之は小乗愛であって、之を最高のものと信じられて来た結果が、今日の如き悲惨なる日本の現実となったのである。
此理によって、民族愛も階級愛も本当のものではないから、一時は栄えても最後は必ず失敗する。故に何々主義などといって、限られたる目的の下に、何程努力しても大成の可能性のない事は前述の通りである。故に、主義とすれば世界主義だけが本当のもので、宗教と雖も、世界主義的でなくては本当の救いとは言えないのである。本教が世界の文字を冠したのも、そういう意味からである。