神様はまことに気が利いている
今日は時間が割合にありますから、ゆっくり話が出来ると思います。昨日「浮世絵展覧会」を見ましたが随分たくさん出てました。皆さんも見られたでしょうが、集めた点では驚きました。しかしずっと見ますと、やはり私の方で出したものが一番良かったです。出したのは四点ですが、有名な「湯女」と、歌麿の「入浴の図」と、それから「南蛮屏風」という外人の風俗を画いたもので小さい屏風です。それで先方でも昨日は博物館の浮世絵専門の人で、近藤市太郎という人がすっかり説明してくれました。又「京都新聞」の社長、編集長も話してくれましたが、やはり私の方の三点が一番優秀だと言っておりました。この種類のうちで一番良いという事を非常に褒めていましたが、私の方でああいう品物は別に大して関心を持たなかったのですが、ちょうど箱根美術館の開館と前後して手に入ったのです。なかなか容易に手に入るものではないですが、すこぶる簡単に手に入ったという事はやはり人間業ではありません。神様はまことに気が利いていると言いますか、そう思って驚いたくらいです。来年は箱根美術館に別館を造ります。別館ですからずっと小さいもので、五間に八間という会場です。来年の開館早々に浮世絵展覧会をやるつもりです。もちろん、数は京都のから言えば何分の一かも知れませんが、品物においては今度の京都以上だと思っております。そういう様な物がだいぶ手に入りましたし、あるいは手に入らんとしている様な状態です。到底ちょっと手に入らない様な物が、不思議に入ってくるのです。実に面白いものです。そんなわけで、来年を楽しみにしてもらいたいと思います。
神様のやられる事は、一分の隙もない
今度こちらに来た目的は知っているでしょうが、嵯峨の土地と、それから最初手に入れた土地のすぐ前に、少し小さいですが手に入ったものがあるのです。そういう点について非常に奇跡があるのです。それを話しますと、最初の方は前に話した通り一万八千坪です。それに百坪位の家が建っているのです。その家は何だかはっきりしなかったのですが、昨日行ってみますと非常に良い家なのです。何だかこしらえかけの様な話があったのでどうかと思っていたところが、立派に出来あがって人が住んでおりまして、住むとしては別に手を入れなくても良い位に完備しております。それで大変喜んだのですが、来年の春はあそこに住まれる家なので喜んでいるわけなのです。あそこは私が少し位滞在するのには充分ですが、ただ信者さんが大勢来た時に困るのです。どうしても庭にちょっと張るより仕方がないのです。すると、最近五、六日前にすぐその前のところに地所が千数百坪、建坪が二百坪余りの家があるのです。それを昨日見たところが、なかなか間数があるのと、どういうわけで出来たのか座敷が立派で板張りが多いのです。ただそれに畳を敷けば随分大勢の人が入ります。ですから信者さんがかなり入って休む事も出来るし、寝る事も出来るのです。実におあつらえ向きの家といった様なものです。それが急速に、それこそ三日か五日で決まってしまって、十七日の晩に決まったという電話が京都から来たのです。ちょうど、私がこちらに来る前の晩ですから、実に神様のやられる事は、一分の隙もないというわけです。始終奇跡には慣れっこになってますが、それでも今度のにはかなり驚かされました。昨日見ますと、庭なんかも今は薮の様に生い茂ってますが、すっかり手を入れるとなかなか良い庭です。家の普請も私は、いい加減値段も安いからバラックくらいの物と思ったところがなかなかそうではないのです。相当見られる建築です。ですから、そこに畳を敷いてちょっとしたところを直すくらいで立派に役に立つのです。庭なんかも奉仕隊の人達が生い茂った草を刈るとか広い庭にすれば、実に良い庭になると思います。それで来年の四月に来るつもりですが、それまでに草刈りをやって貰えばすっかり見通しがつきます。これは京都の教会の方なんかがやってくれると思いますが、まあ、そんなつもりです。それで来年の春に来て五、六日こちらにいて色々計画を立てようと思っております。
神様は芸術には最も重きを置いている
だいたい京都の文化は、良く見ると三段になっています。最初は平安朝の平安文化と、それから東山文化すなわち足利時代のものと、桃山文化です。ちょうど藤原、足利、豊臣と三段になっています。この京都の文化というものはそれであり、それから江戸に移って元禄を中心とした華やかな文化時代が生まれましたが、とにかくそれまでは丁度三段階になっています。仏教の方は奈良の方に早くできた文化ですが、そうかといっていまさら新しく仏教文化を採り入れるという必要はありませんが、今の三段階の文化の良いところ、特異なところ、そういうものを採り入れて、その模倣と言っては仕様がないですが、やはり現代の二十世紀としての感覚に依って、その三段階の文化をよく調和させて、現代の人にもすぐに受け入れられる様な、古い懐古主義的なものではなくて、そういった懐古的なものを採り入れると共に、時代感覚にピッタリ合ったようなものを造ろうと思っております。理屈だけ言うと結構ですが、ちょっとこれで人間的には難しいわけなのです。古いものと新しいものとの調和ずれのない様にピッタリするようなものを造るというのは難しいものです。牛車に自動車のエンジンをつけるように難しいものです。それを無理なくかえって良いというようにするのですが、神様がやるのですから卒はないと思います。つまり今までの宗教などはそうですが、神様というのは芸術的には縁遠いもののように思われていたのです。ところが大違いで、とにかく神様は芸術には最も重きを置いているのです。ただ今までは世の中で芸術的なものを造りたいと思っても、夜の世界で地獄の世界だから、そういうのをこしらえてもしようがないし、条件が揃わないからこしらえないのです。それで最高の神様は時を待たれたのです。いよいよ時が来たので神様は本当の御心を発揮されるわけです。これからは人間の理想としていたようなものがドンドン出来るわけです。そんなような意味で、大いに楽しい世の中ができるわけです。
戦争したいという人を無くす
ところでそういった芸術や美術というものも結構ですが、何よりもかによりも、分かりきった事ですが、まず人間の健康が第一です。そこで人類から病気を除き、健康人間ばかりの世界にするというのが根本ですから、それを根本にしながら芸術の世界を作っていくわけです。いま第三次戦争というのを恐れていますが、これはいま膏薬張り的に各国が軍備を充実するという一時凌ぎしか出来ないのです。実は根本的に戦争のない世界、戦をするという人を抑えつけるというのでなくて、戦をしようという人を無くすというのが根本です。それには健康人間を作るのです。つまり戦争したいとか、あるいは自分一人が偉くなって、自分の国が立派になって他の国は犠牲にしても仕方がないというのは精神が病気です。健康人間ではないのです。健康人間というのは霊体両方が健康になるのです。ところがそういった慈悲も情もないという人間は精神が不健康です。精神が病です。ですから精神病人です。ただ、気違い病院にいるような精神病とは違って、もっと立派な精神病なのです。そういう人が間違った思想をもって、社会をぶち壊したり、大勢の人に不安を与えたりする事を好んでやる。それを好むというのは人間性ではなく獣性です。仲間同士で喰い合いして、自分が少しでも好いものを喰う考えしかないのです。処が今他民族を虐げても、大勢に不安を与えても、自分だけが良ければという考えは獣と同じ事ですから、人間性というのはよほど萎靡しているわけです。麻痺しているわけです。というのはやはり精神病です。ですから精神病の人類を健康にするという事が根本です。

