今回は、私が新潟に単身赴任していた50歳半ばころに体験した、ちょっと怖い霊的な話です。
ある日の夕方、めったに話などしたことのない信者さんから、相談があると言われました。私より少し年配のご婦人です。話を聞くと、そのご婦人をお導きした、とても御恩のある方の遺品を整理していたら、お光り(お守り)が出てきたそうです。ご婦人が「これは粗末にできないな」と思っていたら、その晩に夢に出てこられて、「あの「お光り」をセンターに持っていって、先生から明主様にお詫びをしてほしいと伝えてほしい。私は、「大光明」のお光りをいただいて、自分なりに一生懸命に御用奉仕をさせていただいたつもりでいたが、全然足りなかった。「大光明」のお光りをいただくことの意味は大変なもので、命懸けでやっても足りないくらいのものだ。そのことを、霊界に来て初めて分かったが、霊界では、直接明主様にお詫びすることができない。何故なら霊層界が違い過ぎるからだ。そのやり切れない想いを、ずっと持ち続けてきた。あの先生なら、私に代わってお詫びをしてくれたなら、私の想いも晴れると思う。よろしく頼む。」というような内容でした。
内心「私のような者でも大丈夫かな?」と思いましたが、霊が伝えてこられた願いを断る訳にもゆかず、明晩19時に二人でお詫びをさせていただきましょうということにしました。ご婦人が帰ったあと、何となく気持ちがざわざわして、落ち着きませんでした。しばらく御神前でご婦人が話した夢の内容に思いを巡らしながら、明主様と対話をさせていただき、明晩のお詫びのことをお願いしました。布団の中に入ってもいろいろなことが頭の中を駆け巡り、なかなか寝付けませんでした。
翌日、予定の時間に、ご婦人は「大光明のお守り」を持参して、センターに来られました。「お光り」を三宝にお載せして、御神前にお供えをさせていただき、深呼吸をして、結果を恐れず、覚悟を決めて、お詫びのご参拝をさせていただきました。
その時です。私の後ろで、一緒に祝詞を奏上していたご婦人の声が、途中から男性の声に変わったのです。私は、背中がゾクッとしました。演技派女優ならいろいろな声色に変えることもできるでしょうが、とてもそのような女性には思えません。普通人より、少し霊感が強いというか、霊媒体質的な一面も持ち合わせていたということでしょう。私は、お光りの主が彼女に一時的に乗り移って、祝詞を奏上して、霊界では決して許されることのないお詫びを、現界で必死になってしているのだと思いながら、何とか最後まで祝詞を奏上させていただきました。そして心を込めて、お光りの主がお詫びしたい旨をお取り次ぎさせていただきました。
お詫び参拝が終わって後ろを振り向くと、ご婦人は「本当に有難うございました。○○さんは、大変喜んでおられました。」といって深々と頭を下げられました。その時は、元のご婦人の表情と声に戻っていました。ただ、一時的でも、霊罹りにあった場合には、過去の経験からそれなりの疲労感を感じるようで、そんな感じは見て取れました。
その後ご婦人は、「今私にできる最大限のご献金は、200万円ですが、100万円にしようかどうか迷っています。先生、今回のご守護にいくらご献金させていただいたらいいでしょうか。」と言われたので、「ご献金の額を他人に決めてもらおうというのは、ズルイ考えですよ。しかも、霊的なことに定価は無いと思いますよ。ご自身が、○○さんとよく相談してお捧げされればよろしいのではないですか。ズルイ考えでもって、他人に決めてもらった金額でお上げしたご献金は、明主様はお受け取りにならないと思いますよ。」と答えさせていただきました。
数日後、ご婦人から電話があって「200万円ご献金させていただくことにしました。お届けに行きますので、先生の都合の良い日時を教えてください。」と言ってきました。そしてまた、夜に二人でご参拝をさせていただきましたが、その時は、男性の声に変わることはありませんでした。
この体験を通して、いろいろな学びが許されました。
先ずは、「大光明」のお光りを授かっている人の使命の重大さが、自分の意識を超えたものであるということです。自分も、「教師補」の資格者で「大光明」のお光りを授かっていますが、「命懸けでも足りない」ということを肝に銘じて、常に自分に言い聞かせないといけないと思いました。
また霊界では、直接明主様にお詫びすることができないという厳しさです。現界に生きている私たちは、御尊影を拝しながら、さまざまな願い事や、ご報告をさせていただいていますが、少し気軽にしてはいないかという反省心を持つことができました。同時に、これが現界人に許されている特権だとしたら、感謝しても感謝しきれないことではないかと思いました。
更には、この体験はほんの一例にすぎず、お詫びできないで苦しい思いをされている祖霊様方が、大勢いるのかも知れないと思いました。たまたま、私の管轄の地域に、霊媒体質のご婦人がいて、○○さんとご婦人とそして私の波長なのか因縁なのか、何かは分かりませんが、このような体験を通して、霊界の一つの実態をお知らせいただけたのだと思います。一生懸命やってきたつもりは、自己満足に外ならず、それは慢心ということだろうと思います。油断していると知らず知らずのうちに慢心峠を登っている自分を、自戒する心組み気組みが必要だということを学びました。
その意味では、世界救世教の紛争の中で、役員や幹部となっていた先生方は、霊界でどうしているのだろうと思います。救われている方もいるでしょうが、そうでない人もいるのだろうと思っています。もう一昔以上も前のことですが、「私は、出来るだけ罪をつくらないで、救いの側で明主様の御用奉仕が許されたいと思っている。」といっていた先輩教師が、脳溢血の浄化で帰幽されました。真面目過ぎるほど真面目な先生でした。ただ残念なことは、組織の一員として、上司(役員)の指示に忠実過ぎたということでしょうか。組織的には、救いの側に立っていたとしても、大局的にはさまざまな不平不満を生んで罪をつくっていたのかも知れません。
それと、「あの先生なら・・・」と霊が伝えてきたことの意味ですが、霊は何かしらを分かっていたのでしょうか。私は、自分に救う力があるとは思ったことは一度もない。霊的感性も乏しい。しかし霊は、私の霊的な何かしらを判断材料として、お詫びを頼むことにしたのでしょう。実際問題として、人はとかく立場や身なりや見た目、話の上手下手などで相手を判断しまいがちです。しかしそこには、霊的な判断材料がほとんどないということです。それがどういうことかは分かりませんが、そのような視点、観点をもって意識して人と接していく必要があるのではないかと思いました。
他にも、いろいろと気づかされる事例だと思います。今回は、背中がゾッとした部分が怖いのではなく、霊が伝えてきた内容こそが怖いと思う話でした。私は、専従したばかりの頃から、霊罹りの人へのご浄霊や、霊感の強い人とのお付き合いが多かったと思います。私自身は、霊的な感性はほとんどありませんが、そのような経験には意味があったと思っています。何故なのかの意味は分かりませんが、今後数回に分けて、このような霊的な不思議な体験を寄稿させていただくつもりでいます。
お楽しみに!
by Mr.Right