「世界救世教奇蹟集」 序文 (世奇 昭和二十八年九月十日)

     この著は科学に対する原子爆弾であり、現代人に対する啓蒙書であり、天国の福音でもある。今その理論を説くと共に、裏附けとして我救世教に於ける数多くの奇蹟中から、百二十例を選んで載せてあり、これを読むとしたら余りの超現実的なものばかりで、直ちに信ずる事は出来ないであろう。何となれば古往今来これ程素晴しい奇蹟が多数ある例はなかったからである。そうして昔から宗教に奇蹟は附物とされているのは普く知られているが、その眼を以て見ても本教奇蹟の余りの不可思議さに到底理屈はつかないと共に、その一つ一つが体験者自身の手記である以上、一点の疑う余地はあるまい。としたら日本の一大誇りとして、一日も早く全世界に発表する義務があると思うのである。

      然もこの事は二十世紀後半、今日迄何人も夢想だもしなかった処の一大驚異であり、これが私という一個の人間を通じて行われるとしたら、実に神秘以上の神秘といってよかろう。と共に其処に深い意味がなくてはならない筈である。ではその意味とは何かというとそれこそ宇宙の主宰者たる主神の御目的の一つの現われであって、その理由としては現在の文明に一大欠陥があり、それが文化の進歩に甚大なる障礙となっている以上、これを根本的に除去しなければならないからである。何よりもこれ程文化が進歩発達したに拘らず、人間最大の欲求である幸福はそれに伴なわないのみか、反って不幸は益々深刻になりつつある現状である。ではその欠陥とは何かというと、これこそ科学至上主義であって現代人が科学によらざれば何事も解決出来ないとする科学過信というよりも科学迷信に捉われている事である。茲に於て神はこの迷信を徹底的に打破し、真の文明のあり方を私を通じて教えるのであって、これも全く時の然らしむる処である。勿論この迷信発生の動機こそ、見えるものを信じ見えざるものは無とする唯物一辺倒の考え方に外ならないので、この誤った考え方を是正し、今日迄不可視とされていた霊なるものの実在を認識させるべくその方法としての唯一なものが奇蹟である。

      茲で重ねて言いたい事は若し唯物科学が真理であるとしたら、これが進歩するに従い人類の苦悩は減り、幸福は増さねばならない筈であるのに、現実はその反対であるとしたら茲に疑問が生ずる。成程絢爛眼を奪う文化都市、交通の至便、進歩的生活、一切の機械化等々唯物的には確かに幸福は増したに違いないが、肝腎な精神的幸福は零でしかないのが事実である。

     とはいうもののこれも深甚なる主神の経綸であって、今日迄はそれでよかったのである。即ち神の御目的である理想世界を造るには、その条件として先ず物質文化を或程度発達させなければならないからで、それには唯物観念が必須であったのである。

    今日迄治乱興亡限りなき人間争闘の歴史も、人類が経験し来った凡ゆる苦難も、その為であったのは言う迄もない。併しこの事は無限ではない。いつかは是正される時の来るのは必然であって、それが今日であるから、唯物科学は最早二義的存在となり、唯心科学が一義的存在に転化するのである。右の如く唯物、唯心の両科学が霊主体従の法則に従い歩調を共に前進する事こそ平和幸福の文明世界を生むべき根本真理である。換言すれば宗教と科学が一致する時代でもある。それには何よりも霊の実在を認識させる事であるから、その手段としての奇蹟であり、その担当者としての私という事が分って貰えばいいのである。そうして次に言いたいのは宗教史上顕著とされている彼のキリストの奇蹟である。盲の眼を開き、足蹇(アシナエ)を立たせ、悪人から鬼を追い出し、集った数十人の信徒に水を葡萄酒に化して飲ませた事なども、葡萄酒の件だけは後世誰かが作ったものであろうが、その他は勿論あったに違いない。処が本著にある殆んどの奇蹟はキリストと同じ程度か、それ以上のものさえあり、その悉くが私の弟子が現わすのである。としたら正直にいって実に歴史を覆えす程の大問題であろう。

      又キリストの曰われた“世の終り”とはこの唯物文化時代の終りであり、ついで “天国は近づけり”の予言は、今や生まれんとする高度の文化時代を指したものであろう。従ってこの事が信じられる人にして、真の幸福人たり得る事は、何等疑う処はないのである。私はこれ以上かきたいが、それでは純宗教書になるからこの辺で止めておくとして、この意味に於て読者は本教を目す場合、従来の宗教観を捨て宗教以上の超宗教として遇せられん事である。

      (この著は英訳して全世界に頒布するつもりである)(S・28・5)

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