昭和十年一月一日『大日本観音会』発会
三千年を待ちし甲斐あり東の光は今し昇らんとすも
三千年の固き岩戸も観音の御手のふれて開かれにける
三千歳の王母の園の桃実り神の器と世に現れましぬ
昭和9年・10年 略年譜
- 9年 5月1日 東京都千代田区平河町1−4にて岡田式神霊指圧療法の名で、 信仰的治療所・「応神堂」を開業
- 9年 9月15日 「大本」を離れる
- 9年10月11日 千手観音像の写った霊写真の奇跡現われる
- 9年11月17日 千手観音像の揮毫完成
- 9年12月 4日 祝詞 「善言讃詞」作成
- 9年12月23日 「応神堂」にて「大日本觀音会」仮発会式執行
- 10年1月 1日 立教。東京都千代田区麹町1−7の仮本部にて、「大日本觀音会」発会式執行
- 10年10月1日 東京都世田谷区上野毛3の邸宅を入手し、「大日本観音会」の総本部とする「玉川郷(後・宝山荘)」と命名
- 10年10月10日 総本部発会式執行。この地にて自然農法の研究を開始
- 「東方の光」参照
先達の寄稿「井上茂登吉」
【昭和9年】
・凡ゆる霊的研究と相俟って、神幽現三界の実相を把握せられ、人間の病気と健康に関する一大発見等によって、神霊治療こそ病無き世界を出現し得べき絶対的方法であるとの確信を得られた。
・九年より十一年までは現界の経綸であり、神幽の霊的経綸と異なり、物質的経綸であるから、神業は表面的となり、凡て形となって表わるべきを説示さる。
5月1日
「応神堂」を借りる。
「岡田式神霊指圧療法」創める。
・指圧療法の形式による霊的治病法を創成され、東京都麹町平河町へ一小家屋を借り、応神堂と名づけられ、「岡田式神霊指圧療法」の名により、初めて独自の治病救済事業を創めらる。
「自観及び仁斎と号せらる。」
・弟子達は大先生と称えることとなった。
・絶望せる病の容易に医さるる驚異の偉効により、救いを求むる者活溌に、その数を増し、又光の奇蹟の示顕も著しく現われて、人々の感激は自ら魂の覚醒となり、信仰心となった。
9月15日
「大本教脱退」除名さる。
・愛善新聞配布の為、借家せられしもの市内に三個所ありき、(治療営業を創められた頃から、大本教幹部間では、除名の議が起こっていた。)
10月11日
・中国道教の修行者、東光男氏、霊感により撮影せる写真に教祖の身体より極めて強烈なる光明を逩せるが顕出され、次いで円光と龍神を顕出せるもの現われて、三態の神霊写真出現せるは空前の驚異なりき。
10月21日
「神霊写真に顕われし画像を下絵とし、大作千手観音像を描かる。」
・(これが観音会創立の根本である)
11月
「大日本観音会を結成、観音運動に着手せん事を決定」
・神道本局の教師資格を得られ『神言讃詞』及び『善言讃詞』を作らる。
12月23日
「観音会仮発会式挙行(於応神堂)」
・教祖は会主となられ、会主の下に、会長及び次長各一名、理事十名を以て組織。支部三ヶ所設置、信徒總数約七十名。
・奇蹟により稀覯の大黒天像入る。「みろく大黒天」と命名。仮本部神殿脇に祀る。
【昭和10年】
1月1日
「大日本観音会発会式」
・大本教麹町分所を仮本部として、(麹町区山元町1ー7)
・会主は、「大光明世界建設」を宣言、その「目標達成の経綸」「観音会創立の意義」「東方の光」「最後の審判」等の神秘開明さる。
・観音会は宗教と医学の二部門を併立して発足。
2月4日
「東光社を設立」、『東方の光』『光明世界』発刊
・麹町四丁目に出版宣伝部東光社設定。
7月15日
「観音講座開催」
(この頃から警察当局の召喚をしばしば受けらる)
・講義は七回(七日)終る者には宣導使の資格付与。
10月1日
「玉川上野毛の田男爵邸購入」
「玉川郷」と命名総本部設置さる
・世田谷区玉川上野毛町234 敷地約三千坪 家屋約二百坪
10月26日
「北海道定山渓に観音尊像奉斎さる」
・定山渓温泉に観音堂建立 十八番札所となる。
先達の寄稿「岡庭真次郎」
【昭和9年】
1月1日
先生の御命令によりて本日より、いよいよ大本教の神の礼拝を後にする事伊都能売大御神様の御礼を最初に致す様に決定す。尚本日より桃太郎立ちて、東京の鬼ヶ島を征服すべく愛紙を売り始む。観音様は桃太郎であります。先生は昭和の桃太郎であられるから犬猿雉こそ我々信者なのである。いよいよ今日より東京の御経綸が表面化した為なのである。
1月11日
麹町半蔵門の分所月例座談会で、木に日が掛り古里の者がさわぎ出す。という、大本のお筆先が出る。是こそ木に日が掛り、東という字となり、古里の者とは、都という字なり。いよいよ東都もさわぎ出す時期となる予言なのである。東京の御神業は実に重大にして多難である旨のお話しありたり責任重大なり。
5月1日
先生麹町平河町應神堂へ御移転、電話急設申込をなし、先生御用の御座布団を買入れに行く。いよいよ本祭の仕度をなし御祭り後、立派な御馳走が出る。富士山と現神との御額面用の画と御書を頂戴す。未だ曾て現神等という御額面の御筆蹟は頂戴致した例はないのである。本日麹町分所の御祭をなし、又應神堂へ先生の御供致して参上、また御話を承りたり。此の度はいよいよ大森の御邸は岡庭が御用さして戴ける事となりたり。是こそ先日の紫の祭服をもらい棺桶に入りたる夢の事にして実に有難い限りなり。
6月15日
日枝神社へ先生のお供して三十六人にて参拝す。通明御先導にて先ず参拝。先生御先達にて祝詞を奏上す。天照大御神様いよいよ麹町の山王様に御鎮座ましましたのであるが、此の事は神官すら知らない事であった。御参拝終りて御馳走になる。此の日朝の内に田谷暉美代の葬式をなしたり。
9月15日
先生は田口氏等一派の陰謀により聯合会長等に新聞社に呼ばれて何彼と申され新聞販売三ヶ月止めろとのひどい事を申され聯合会長、大村瑞枝もメーソン一派にあやつり人形の如くにされ居るなり。先生には此の為にいよいよ大本より全くの脱会すると御言明なされたのである。然し乍ら此処に重大なる御神業は有るのである。
いよいよ御神業は一段と進展される芽出度い事になるのであるから面白いのである。尚此処に、大森一派の新聞主任が亜細亜本部に抗議に行く事になる。是も又御神業である。
昭和九年九月十五日、大先生が桃太郎として御生まれになられたからその母体たる大本教から離れたのであります。<昭和九、九、十五日、大本教より離脱する>
10月11日
先生のお写真をとらしてもらいたいと、東光男と称する神霊研究全方面の人来りて、先生に東洋に観音力を備えた人が三人出るとの御知らせにより東洋を廻りて写真を撮って歩いたが一人も無いとの事に、先生がそれは私の事だと申されたので、それでは写真を撮らして保しいと言うから、どうかお取り下さい。何処で写しますかと言へば、床のお軸を外して床の間に坐って下さいとの事故、お軸を外されて写されたのである。
10月12日
写真が出来上り来たれる。御写真には先生の御体の左側のお腹より、非常に強烈なる霊光発射され天井に当りて右側になびきたる中間の先生の御頭上に千手観音様のお姿の現れられたる大霊写真こそは、現出されたのである。恐ろしとも、恐ろし、何とも有難き極みなり。かねてより先生のお腹中に観音様が、おいでになられると言うお言葉なりしも、いよいよ、厳然として実現なされ今更ながら、ならねども嬉しく有難く実に手の舞い足の踏む所を知らずど言うも愚かなれ、此の御姿こそは千手観音様の大御神体としてお書き遊ばされたのです。
10月21日
先日の東光男氏又来りて、金高氏方三階に於て、第二回目御写真をお撮りになられたのであった。此の度は如何なる御写真となられるか……
10月23日
先生の御写真は、今度は写真屋にやりし処、写真屋だから、此んなオッカナイ写真は出来ないと断られ、東光男氏斎戒沐浴して、出来たとの事にて、出来上りたる御写真は、先生のお姿は消えて、大光輪の霊写真が現れ給う、先生の御姿は、お光りの為に至極うすく拝され、真っ白い大光輪のみハッキリとして、そのままの観音様の御身御生身なりとは、今更ながら自観の御雅号の如くにて、観音その身その儘なる事を証して余り有り。
尚、又御ウタタ寝の時のお写真は大金龍神の御守護の御霊写真にして先生の予而より、私の躰は金龍神が守護して居るから如何なる悪魔も何ともする事が出来ないとの御言葉も、いよいよその儘、御ウタタ寝のお姿の御首根に金龍のドクロを巻かれて八方を、にらみ居られるその金龍神の御姿が、その通りに御守護のお姿なのである。
11月1日
松風の和歌と金蘭会の冠句を作りて麹町應神堂に参上すれば、光輪と龍神の御写真出来上り居りし為、御写真を戴く。本日大雨途中から降り出したり。先生は是は此の龍神の御写真に写られた龍神の仂きの為であるとのお話しなりき。
12月4日
浅草支部の月並祭後、應神堂に参拝本日先生には神言祝詞、善言讃詞の両祝詞をお作り遊ばさる。我等はお側にて午前三時過迄もお邪魔さして頂く。
12月23日
原三代子氏方月並祭をさせて頂きつつも何となく気のせかれつゝ飛付ければやれ嬉しや二十分前なり、いよいよ千手観音様鎮座祭始まる、千手観音様の浮き出た様なお若き勇ましいお姿、是こそ桃太郎のお姿にて千手観音様こそは鬼ヶ島を征伐なされる桃太郎なのである。丁寧に申上げれば千光千眼千手観世音菩薩と申されて、御手四十本が、一本の御手毎に二十五有を備えられてる為、千手となるのである。今日の暖かさ先生の御誕生日であって実に芽出度き日に、重ねて此の新しいお姿の鎮座祭、御祝詞も、御新作の神言祝詞及び善言讃詞の崇厳さ有難さ、今は何もかも洗い替えとなって本当に救われた有難さ、御神歌も御新作の千手観音にて、大本教とは、まるっきり隔世の感あり。斯くして一同感謝感激の内に鎮座祭は終ったのである。此の日を以て事実上、大本教とは絶縁された訳なのである。此の夜役員も決定す。会長、竹村良三、次長正木三雄、理事長中島、常任理事、岡庭及び松久、理事、清水、木原、中野、堀口、金高夫妻両氏、荒屋、庶務会計は正本氏兼務と決定。井上氏は今後、東光社に宿る事となる。
此の日を境として二十四目よりは大本祝詞を辞め、観音会の新祝詞を奏上する事と決定す。是にて最早や大本教と絶縁も決定せしなり。
【昭和10年】
1月1日(立教)
十二時を打つと早速、午前零詩より、いよいよ御祭典開始、御祭神は偉大なる御軸であられる千手観世音菩薩、即伊都能売之大神、即ち天照皇大御神様が世に御出現遊ばされたので有った。猛然と降りしきり居たりし雨も、此の時ピタリと止みて、実に心地よき御神前の有様有難しともいと有難し。いよいよ大日本観音会の発会式を終りて、日月地の御世の第一歩を即せし事にて、今日迄天下を掌握し居たりし、常世神王は逆に押込められて、いよいよ天の岩戸は打開かれて、光輝燦然として、天照皇大御神様の御顕現遊ばされたのである。いよいよ本日を以て霊界では、神聖元年なるのである。應神堂を仮木部としての第一日である。午前六時半すぎ、御礼を申上げて帰宅す。
午前十一時起床、諸々の行事終って午後二時すぎ又、仮本部應神堂へ行く午後六時仮本部の御祭り後、先生の御話は、実に五六七の御世の満ち来る事の安きをお話し下さる。観音様に何の私情もなく、世の中を悪の神に任せつつも、平和の力を発揮されつつ、中途迄は全然陰からの御守護であって、陰から余りひどく成らない様にと見守られつつあられたのを、いよいよ天の時は此処に至りて天国極楽浄土の建設に、今日から御取掛りになられる事とは成ったのだ。
今日の御祭典の明るさ、朗らかさ、神様の御経綸の神聖元年一月元旦の芽出度き一日は和やかに更けて行くのを知らなかったので有った。
千手観音の鎮座祭と大日本観音会の発会式は終ったのだ。
本日を以て日月地の御代の第一歩に入った事になるのだ。
1月3日
夜、應神堂に於て結構なる御神徳を戴く。美智は御原稿の清記の如き御役を、荒井、中瀬両氏は本部及び東光社の計算係り等のお役を賜る事の由承る。先生の御用は今現在は、万神のお仂きを全部なされていらっしゃるのである。何故ならば、我々の身魂浄まらざる為、一切はそれまでおやり下さる為にて、いよいよの時始めて諸々の御用を御申付下さるので有って、其の時始めて因縁のある者によりて、その御用を頂戴出来、又その神格を頂戴出来るとの御話し故、自分等としては、その一日も早からん事を、心に念じ大いに身魂磨きをせずんば有るべからずこの様になるのである。
1月4日
山田隆三氏(八股の大龍の意)始めて話が判って来て夕食後共に先生をお尋ねする事になる。先生山田氏の為に非常に良いお話をして下さる。山田氏は言う、先生の御誕生日十二月二十三日は、太陽にて計算する時は一月一日となるとの事、十二月二十三日は、冬至の次の日にて、正にその様にも当る。皇太子明仁親王と同じ十二月二十三日なれば、実に目出度きにて、ゆくゆくは一月一日と定めお祝いや、お祭りをなさる事となること成らんか、尚今後はその人々の長所、短所によりその人の御用は変るとのお話しなりき。
1月10日
五風十雨の五六七の御世はいよいよ相違なく来る事を本日迄の十日間に於て見せて頂く。実に有難き極みなり。今朝先生おめざめと同時に、今日は雨が降ってゐるだろう。これで五風十雨の型だとのお話しなり。十二月三十一日雨降り、一日より天気よくみな快晴。五日は風強かりしも、又天気続きて、十日は雨となる。是こそ五風十雨の型なり。誠に目出度し。本日大森支部の月次祭なれ共、いよいよ本月より祭典は二十五日に一緒にやることとなす。茂友の三十日祭をなす。
2月14日
應神堂に参上御話をお伺いす。今晩より祝詞なぞの時、三拍手にする様に御話ありたり。大本教のお筆先は若姫岐美尊が艮の金神様よりお話を頂きしを、お筆先として出されし事にして、艮の金神様、直接の事では無いのであると、お話ありたり。
5月21日、
大雪雨ありて雹まで降りて後、晴天となる。本日は本部に講習会ありて出席す。我観音会では観音様をお祭りすれば益々此の頃は、御神徳の多きを判っきりさす程、毎回のお話にて聞き及ぶ。実に有難い偉大な御神力を感ずる外なし。特に観音会では観音様さえお祭りすれば、其の御霊光に依り、先祖の霊統皆、罪を取り去って頂ける為に、天国に引上げて頂けるので、天理教とか大本教等の如く、別に仏壇の仏を、又神様のお祭り替えなぞしなくとも、仏壇のままにて救われる為、実に有難いのである。
仏様を他宗の如く、祭替えて後、病人のその後に起るは先祖様がその宗教では気に入らない為に怒りて病気を起こさせて知らせられる事となる。
12月31日
大先生は本日も東京支部(麹町)へ御通勤、この年末に際してまで実に御努力恐れ入るの外なし。本日額のかけ替えや、掃除をなす。大先生より今晩正月の小遣いとして金十円也頂戴す有難し。